
『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』(大月書店)
本を読んでいるとしばしば、読む前と読んだ後で自分の中の何かが決定的に変わってしまって、知らなかった頃にはもう二度と戻れないような、特別な読書体験をすることがあります。そんな本の一つが、『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』(加藤圭木監修・一橋大学社会学部 加藤圭木ゼミナール編 大月書店)です。
タイトルの「日韓のモヤモヤ」は、きっと日本という国に住む人なら誰でも、多かれ少なかれ感じたことがあるのではないでしょうか。
テレビのニュース番組での「史上最悪の日韓関係」という言葉や、書店で見かける「嫌韓」本や電車の中吊り広告の週刊誌の見出し、K-POPグループの推しが「反日」的なSNS投稿をしたりグッズを持っていたりすること、韓国の文化が好きであることに対する、親や周囲からの批判的な言葉。そういったことに対してなんとなくモヤモヤした気持ちを抱くものの、結局何が本当なのか、どう捉えたらいいのかよくわからず、誰かと話すのも難しいために、あまり深くは考えられていない——この本の中には、そんな感情や状況を出発点に朝鮮近現代史のゼミに所属し学び始めた大学生たちが、様々な葛藤や学びや対話や思考を繰り返しながら、日韓関係をとりまく「モヤモヤ」とどう向き合っていくべきかを丁寧に考えてきた過程が、等身大の想いと言葉で記されています。
「韓国の芸能人はなんで『慰安婦』グッズをつけているの?」「どうして韓国の芸能人は8月15日に『反日』投稿するの?」「『植民地支配はそれほど悪くなかった』って本当?」、そんな疑問からはじまるそれぞれの文章を読んでいくと、多くの日本人が、いかに自分たちの加害の歴史とその影響を深く知ることも考えることもせずに、あるいは自分たちに都合の良いように解釈し、無邪気に文化だけを消費したり、一方的に相手の言動を「反日」とジャッジするような態度を取り続けてきたのか、という事実に打ちのめされます。
何よりこの本を通して「日韓関係」をとりまく様々な歴史や問題を改めて一つ一つ知っていった結果気づいたこと、それは、私たちが“日韓の”問題だと思っていることは、むしろそれ以前に私たち日本人や日本社会が抱える“日本の”問題なのではないか、ということでした。
たとえば、「植民地支配」「日韓併合」「従軍慰安婦」「徴用工」、こういった言葉を義務教育の歴史の授業で確かに学んできたものの、それはテストのために暗記しなければならない、教科書の中のただの「単語」に過ぎなかったこと。また、修学旅行で訪れた戦争の資料館や、これまで観てきた戦争をテーマにしたテレビドラマや映画なども含め、「戦争について知る」ということは、ほとんどの場合「日本人が受けた被害や犠牲について知る」ということでしかなく、日本の侵略や加害によって傷つけられた他国の人々の姿を目にしたり、考えたりする機会はほとんどなかったこと。
こんなふうに一度立ち止まって考えてみると、自国の「加害」の歴史や事実についてはほとんど学ばず、「被害」の面にばかり触れて生きるのが当たり前になっている日本社会の教育の在り方や価値観は、あまりに偏っていて問題があるように思えます。この本の応用編として紹介されている『だれが日韓「対立」をつくったのか 徴用工、「慰安婦」、そしてメディア』(岡本有佳・加藤圭木編 大月書店)という本の中でも、日韓をめぐる様々な問題について、日本のマスメディアが韓国側の動きを非難する日本政府の主張を一切検証せずにそのまま報道していることや、被害の当事者や市民などの多様な声を伝えようとしないことの問題点などが指摘されています。
言い換えれば、私たちは「加害」と「被害」両方の側面から、歴史や今なお続く問題について知り考える機会を奪われており、その結果、過去の過ちについて本当の意味で反省し変わっていくことも、その上で韓国や他の国々と良好な関係を築き、前に進んでいくことも出来ない状況に陥っているとも言えるのではないでしょうか。私はそのことに怒りを覚えるとともに、非常に怖いことだとも感じています。
あるいは、もう少し日常や実感に近い視点から考えてみると、「韓国人の友達がいるから」「韓国文学やK-POPなどの韓国文化が好きだから」、だから「自分には韓国や韓国人に対する偏見はない」、そう思っている人は多いかもしれません。私自身もまさにそんな一人だったものの、自国の加害の歴史や相手が抱えている葛藤をほとんど知らずに「(相手に対して)偏見がない」と思っているというのは、とても傲慢で浅はかな考えや態度であったことにも気づかされました。
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