5月13日20時より、遠藤まめたさんと熱田敬子さんによるオンライントークイベント「熱田さん、中国のフェミニズム・LGBT運動から何を学べるんですか?」を開催いたします。
本イベントは、遠藤まめたさんをホストに世界のフェミニズム・LGBT運動について識者にお話を伺う定期イベントの第一回であり、また熱田敬子さんが編著者として参加されている、今年3月刊行の『ハッシュタグだけじゃ始まらない:東アジアのフェミニズム・ムーブメント』(大月書店)の刊行記念イベントでもあります。
イベント開催を受け、『ハッシュタグだけじゃ始まらない』の一部を試し読みとして掲載いたします。ぜひ書籍のご購入、イベントの参加をご検討ください。

熱田敬子
大学非常勤講師、ジェンダーと多様性をつなぐフェミニズム自主ゼミナール~ふぇみ・ゼミ運営委員。専門は社会学、ジェンダー・フェミニズム研究、研究テーマは人工妊娠中絶の体験分析、日本軍性暴力被害者の名誉回復運動など。共著に『ハッシュタグだけじゃ始まらないー東アジアのフェミニズム・ムーブメント』、『架橋するフェミニズム ー 歴史・性・暴力』(松香堂)、論文に「雨傘運動の性/別問題」、「『お母さん』支援としての中絶ケアの問題性」ほか。
「行動派(アクティビスト・パイ)」っておいしいの?
2011年、アメリカでは悪化する雇用状況や一部の人間による富の独占に抗議してウォール街が占拠(オキュパイ)された。現代社会において、抗議行動はグローバルに影響を与え合う。翌年、中国広州で占拠されたのは男子トイレだった。後に「女権5姉妹」として知られる李麦子(リー・マイズ)、鄭楚然(ジェン・チューラン)ら大学生が、男女トイレの便器の比率の不公平や、オールジェンダー、バリアフリートイレの不足に抗議して、「占領男厠所」(オキュパイ・メンズトイレット)というアート・パフォーマンスをおこなったのだ。トイレに来た男性に不平等を説明し、入りたいときにトイレを待たなければならない経験をしてもらう対話型アクションだった。
同じ頃、北京の下町観光地・前門(チェンメン)に、血のりで染めたウェディング・ドレスを着た、肖美麗(シャオ・メイリー)ら3人の女子学生が現れた。彼女たちは「暴力が隣にあるのに、まだ黙っているの!?」「殴るのは愛じゃない、罵るのは愛じゃない、暴力をやめ愛しなさい!」「愛は暴力の口実ではない」と書いたプラカードを掲げ、街を練り歩いた。
彼女たちは「行動(アクティビスト)派」と呼ばれる、当時20代を中心としたフェミニストだ。大学入試で男子学生の合格ラインが女子学生より低く設定されていることに頭を剃って抗議し、政府の教育部の根拠を「照らし」出そうとする「光頭行動」、裸でDV立法を求めるフォト・アクション、500の企業に性差別をやめるよう手紙を送る行動、国際反ホモフォビア・デーのダイ・イン、フェミニズム徒歩旅行などのパフォーマンスを次々に企画した。市民の集会が規制されている中国では、デモなどの大規模な街頭行動は難しい。行動派は、社会への働きかけを重視してフラッシュモブをおこない、SNSで写真や映像を拡散した。メディアもユニークな活動に注目した。
行動派フェミニストはさらに、上の世代のフェミニスト学者やジャーナリスト、弁護士と協力し、行政や議会に要望を届けるなど、制度的な働きかけも積極的におこなっている。「90後」と呼ばれる90年代生まれのSNS世代の、不特定多数に訴求する新しいフェミニズムが生まれた。男子トイレ占拠も血染めのウェディング・ドレスも、各地で「再演」されている。

2012年12月10日の世界人権デーに、北京、広州など13都市で若い行動派フェミニストたちが「傷だらけの花嫁」のパフォーマンス・アートをおこなうと同時に、各地の公安局にDV解決の施策を求めた。この写真は、続くバレンタインデーに、肖美麗(シャオ・メイリー)、李麦子(リー・マイズ)、熊婧(ション・ジン)らが「血染めのウェディング・ドレス」を着て、北京の下町の観光地・前門(チェンメン)で、DVに抗議する行動をおこない、DV啓発のチラシを配布したときのもの。
草の根フェミニズムが生まれるまで
強い魅力とエネルギーにあふれた行動派のフェミニストは、突然誕生したわけではない。中国でも第1波フェミニズムは19世紀末から盛り上がり、封建制や帝国主義への抵抗に加わった女性たちは、参政権獲得や革命参加を掲げていた。抗日戦争、国共内戦には多数の農村出身の女性たちが、女性兵士として参加している。そして、中華人民共和国建国後は、中華全国婦女連合会(婦女連)が、共産党の指導を受ける全国組織として結成され、今日まで活動してきた。
1980年代の後半になると、そこに新たな市民運動的な流れが生まれる。1988年、「メイプル・ウィメンズ・心理カウンセリングセンター」(北京紅楓婦女心理咨詢服務中心)が中国で初めての民間女性団体として設立された。そして、大きな変化をもたらしたのは、1995年に北京で開かれた世界女性会議、なかでもそのNGOフォーラムであった。
人民日報の元記者・馮媛(フォン・エン、反DVネットワーク「反対家庭暴力網絡」、「北京為平婦女権益機構」などを設立)、中国婦女報の元記者・呂頻(リュー・ピン、フェミニスト・メディア、メディア監視機構「女権之声」を設立)は、世界女性会議に参加した後、「体制内」の安定した仕事を捨て、自ら草の根のフェミニズムNGOを設立することを選んだ。中国においてNGOの活動全般が可能になったのもこの時期であり、中国の官製フェミニズムの中にいた女性たちの一部は、世界女性会議をきっかけに草の根フェミニズムを志した。また当時、国家経済体制改革委員会で働いていたレズビアン・アクティビストの何小培(ホー・シャオペイ、「粉色空間(ピンクスペース)文化発展中心」を設立)は、世界女性会議の通行証を手に入れ、NGOフォーラムのレズビアン・テントに参加したことが、非常に大きなエンパワメントになったと語っている。
行動派にも多くのレズビアン女性が参加し、中国ではフェミニズムとクィア・アクティビズムの距離が近いとよく指摘される。「拉拉(ララ)」と自称するレズビアン女性たちの世界女性会議に触発された活動、セクシュアリティ関連のNGO設立などがあったことは大きな原因であろう。
当時、中国では「世界女性会議が開催されると、レズビアンやセックスワーカーがやってきて、裸で街を歩く」とデマが飛んだという。中国政府は世界女性会議に西欧世界との関係構築の期待をかけつつ、少数民族女性の問題や、日本軍戦時性暴力の中国人被害者の問題などを取り上げることに強い制限をかけるなど、強く警戒もしていた。それでもフェミニスト、クィア・アクティビストは、新たな社会運動の空気を確実に吸収していったのだった。

5月17日の、国際反ホモフォビア・トランスフォビア・バイフォビア・デーにおこなわれたダイ・イン。「ホモフォビアはレズビアンを殺す」と書かれたプラカードが×印で参加者を覆っている。