仮面を被らないと没入できない疎外感
女性主人公の大作映画は、まだまだ数が少ないながらも、近年徐々に数を増やしつつある。これまで大作映画の中でカッコいいアクションを決めて、世界を股にかける男性主人公たちに憧れてはいたけど、自分とは違う性を持つ彼らに疎外感を感じてもいた。
男(それも異性愛者の男)の仮面を被らないと映画に没入できなかった私自身は犠牲になっていたのだ。
だから、仮面をあまり被らないまま没入できるような女性主人公の映画は嬉しくて--女性主人公を盾に妙に保守的なテーマやモチーフが使われたり個々の作品には個別の課題を感じるけど--もっと増えていってほしいと願っている。
自由度から生まれる女性主人公とセクシュアリティの表現
一方でゲームの世界では、女性主人公の存在は映画と違う道筋を辿ってきた。2018年のゲーム発表会E3で発表されたタイトルを分析した調査では、女性主人公はわずか8%に過ぎなかったが、実は男性主人公も24%にとどまっており、発表されたタイトルの50%は主人公のジェンダーを選択できるものだった。
ゲームで人気のあるRPGというジャンルにはプレイヤーが自分の思い通りに作ったキャラクターでロール・プレイを自由に行うゲームという側面がある。そこではプレイヤーが取ることのできる選択肢の多さが評価の対象となる。
この自由度と選択肢の重視が結果として主人公のジェンダーを選ぶことができるゲームの数を増やしているのだ。
もちろん、女性主人公のゲームが男性主人公のゲームの三分の一というデータが示すように、多くのゲームはプレイヤーに男性キャラとの同一化を促していて、それは性別を選択できるゲームでも変わらない。また少しずつ変化はあるもののバイナリーなジェンダーのプリセットが標準的であることも指摘する必要がある。
さらに言えば、大作ゲームでは人種差別をはじめとした様々な差別がハードな雰囲気とともに語られるが、ミソジニーやホモフォビア、トランスフォビアといった事柄は曖昧にされてしまうことが多いことも大きな欠陥としてあげられる。
自由度の高さと、その歪み
とはいえそれでも、女性を選び自由に世界を駆け巡ることができるのは嬉しい。
ゲーム特有の自由度と選択肢の多さを重視する評価基準は、ジェンダーの選択だけではなく、性指向の描き方にも大きな影響を与えてきた。たとえばSFアクション大作の『Mass Effect』シリーズやファンタジーRPGの『Dragon Age』シリーズなどは自由度とロールプレイを重んじつつ、同性とのロマンスも一定の誠実さで描いてきたことで知られている。
今回紹介する『アサシン クリード オデッセイ』もこうした自由度と選択肢を重視するゲームであり、その中で同性とのロマンスも語られる作品だ。そして同時に、その歪みをとても大きな形で抱える作品でもある。
『アサシン クリード オデッセイ』をやってみる
「アサシン クリードシリーズ」は壮大な歴史を舞台にした、10年以上に及ぶ人気シリーズだ。
ルネサンスやフランス革命といった歴史上の大事件が起きた時代が、ゲームとして再現され、歴史の影で暗躍する暗殺者としてアレクサンドリアやフィレンツェといった過去の大都市を自由に歩いたり歴史上の有名人と会ったりできるのが特徴のゲームだ。
「アサシン クリードシリーズ」はこれまで男性主人公がメインだったが、今回紹介する『アサシン クリード オデッセイ』では自由度が大幅に高くなると共に女性主人公が導入され、クィアネスの描写も広がった、かに見えた。
とりあえずゲームをやってみると、物語の舞台となるギリシャの景色が……すぐには広がらない。実は「アサシン クリードシリーズ」には、過去の人物のDNAから記憶をバーチャルリアリティーとして再現して、その中に現代の人が入り込む、という妙に複雑なSF設定が背景として存在する。だからゲームを始めると、ちょっとした導入の後にこの「過去に入る現代の人の物語」がまず展開されていくのである。
『アサシン クリード オデッセイ』と前作である『アサシン クリード オリジン』そして次作の『アサシン クリード ヴァルハラ』ではこの現代パートの主人公がレイラ・ハサンというアラブ系の女性になっている。
現代パートはよくオマケとか余分とまでも言われるけど、私は結構この野心と好奇心に突き動かされる女性が好きで、彼女が活躍するこの部分も気に入っている。彼女がフェアな扱いを受けているとは思えないけど、好奇心を原動力にあらゆる対立勢力から逃れ探求を続ける姿勢は危なっかしくも憧れたくなる魅力がある。
現代パートのムービーを少し進めるとレイラ・ハサンが男女の双子のDNAのどちらかを選び記憶に入りこむ場面になる。ここでプレイヤーは主人公を男女のどちらにするかを選ぶことになる。つまりプレイヤーはレイラ・ハサンという現代の人間を操作し彼女の目を通して過去の男女に同一化するという複雑なプロセスを体験させられるわけだ。
ミッションをこなしながら、アイデンティを確立していく
こうして記憶の世界に入り込むと目の前に青い海と鮮やかなオリーブの黄緑が織りなす美しいギリシャの大地が広がる。
主人公はカサンドラという名前の力強い女性で(男性主人公を選んだ場合はアレクシオス)、ギリシャを駆け回る傭兵として生きている。とはいえ実際は傭兵というよりは血みどろな便利屋みたいな感じで、あれこれと要望を聞いて行動をしていく感じだ。
序盤のミッションをいくつかこなすとギリシャで暗躍する陰謀組織と対峙しないといけない、という物語が示されギリシャ全土にアクセスできるようになる。
ゲームの物語の背景には自分を捨てたスパルタ人の父との葛藤があり、ゲームが進む中でスパルタとアテナイとの戦争に巻き込まれていく、という具合に大きな物語が幾重にも折り重なる超大作だ。その中で様々なルーツを持つ主人公が自身のアイデンティティを確立していく様子を追うゲームでもある。
とはいえ一つ一つのミッションはそれほど大きなものではない。基本的にはちょっとしたお使いだったり探し物を頼まれるところからミッションがスタートして、そうした細かなミッションが連鎖していく作りになっている。たとえば、キャラクターと話すと別のキャラクターと話すように言われ、そこでまたアイテムを集めるとか誰かと戦うとかどこかへ行けと言われたり。こういう展開はこの種のゲームではおなじみのものだ(そういうゲームを「お使いゲー」と言ったりする)。
カサンドラにはドローンのような都合の良い鷹の相棒がいて、この鷹が上空から探し出した目的地に、断崖絶壁や建物の壁を伝って行き、場合によっては戦闘したり暗殺したり会話によって説得したりといった感じでミッションは進んでいく。
バイオレンスで血生臭い話も多いけど、カサンドラという女性がはっきりと自分の意思を示しながら、世界を駆け回る姿に移入するのはちょっと嬉しくもある。
理想化されたギリシャを遊ぶ楽しさ
ロマンスの描き方もそうで、カサンドラは基本的には意思がある存在として振る舞い、扱われる。カジュアルな関係から深い恋愛まで、カサンドラは本編では選択肢を握ることができている。
また主人公の男女の選択でストーリーは大きく変わらないが、ところどころで彼女が女性の英雄であることを描く場面はあるし、同性とのロマンスでは2人が異性愛を行うわけではないことが(極めてクリシェなやり方ではあるが)示されもする。
ただ妙に巨大な神像があちこちに立っているヴィジュアルが示す通り、このゲームのギリシャが描くのはあくまでファンタジックなギリシャでしかない。奴隷制なども一通りは描かれるが、当時の女性差別のありようは曖昧にしか描かれないし主人公もその差別を受けることはあまりない。またギリシャの男性同性愛は現代のそれとは全く異なるヒエラルキーによる実戦だったが、そうしたことも本編では曖昧にされている。
それに自由度と選択肢と言ってみたところで、結局物語を進めるには戦闘や暗殺に手を染めていかないとどうしようもない場面も多い。一応、多少であれば殺さずに進めることは出来るのだが。
それゆえヒロイックな活躍をギリシャ全土で繰り広げるカサンドラはあくまで理想化された存在しなかったギリシャを生きる人でしかない。だから良くも悪くも彼女はマスキュリンなファンタジーを(プレイヤーが男性でなくとも)男性の仮面を被ることなく具現化してくれる存在となっている。
『アサシン クリード オデッセイ』の楽しさは、ありえない過去としての現代からみて理想化されたギリシャを遊ぶ楽しさなのかもしれない。
そして、その理想化の代償は軽いものではないのではないか、と私は考えている。
差別を曖昧にする描写と現実の社会の正面衝突
『アサシン クリード オデッセイ』で最も批判を受けたのはゲーム本編の後を描くDLCの描写だ。DLCとは本編発売後に追加で販売される小規模なダウンロードコンテンツ(DownLoad Contents)で、本作ではエリアを追加する続編的な内容が幾つか販売されている。
批判の対象となったのはこのDLCシリーズの第一作目の『最初の刃の遺産』だ。ここでなんと主人公は異性と恋愛をし、子供を作ることを強制される。プレイヤーが主人公を異性と恋愛したりしないキャラクターとしてゲームを遊んでいても強制されるこの展開に多くのプレイヤーは失望した。
これは単に、製作者がプレイヤーがクィアに遊ぶ可能性を忘れ選択肢を押し付けたというだけではない、と私は考える。
先述したとおり『アサシン クリード オデッセイ』は男女差別などを曖昧に描き、その中でプレイヤーがある一定の自由を楽しむゲームだ。だが、この自由は製作者によって提供された選択肢に基づく自由でしかない。選択肢によってプレイヤーに倫理を問うてみても、それは製作者の思考や社会のバイアスが反映される。
当然のことを言うようだけど、ゲームの選択肢や自由というものはどれほど自由にみえてもこの限界を必ず持たざるを得ない。
だから与えられた自由度によって自分のアイデンティティを表現するプレイはどこかで強制的なストーリーと衝突する時が来てしまう。
ちょうど社会に埋め込まれた強制的な異性愛がクィアな生を禁止するように。
ゲームがどれほど差別を曖昧にしようと、現実にある差別はどうしようもなくその中に入り込むし、結局はゲーム自体と矛盾し食い破ってしまう。『アサシン クリード オデッセイ』のこのDLCはこうした図式の典型例に思える。
さらに私は「アサシン クリードはこれまで男性主人公がメインだったが、本作では自由度が大きく広まると共に女性主人公が導入され、クィアネスの描写も広がった、かに見えた」と書いたが、実はこれは全くの勘違いだったことがのちに判明する。
ゲームの製作会社のUBIでは2020年ごろに上級職による悪質なハラスメントの告発が行われた。多くの幹部が辞職したが、この中で『アサシン クリード オデッセイ』がはじめは女性主人公のみで作られるはずが、マーケティングチームやハラッサーによって女性主人公では売れないと判断され男性主人公も付け加えられることになったことが明らかになった。UBI社内では長い間、開発者による女性主人公を出すための戦いが行われていたのだという。
現代の社会の差別は、その中で作られる創作物にも様々な形で影響を与え、ここから自由に逃れるのは難しい。それを無視するかのように存在する創作の中のギリシャ世界は、結局どこかでこの現実の圧倒的な力と対峙せざるを得なくなる。ちょうどゲームが過去と現代の間で物語を行き来するように。
ゲームは業界の構造としてもまた作品としての構造としても様々な問題がありつつ、それでも様々な開発者の意思と戦いにより大作ゲームは”多様性”を描くこと追求していく傾向にあり、この力は映画のようなメディアよりも力強く見えることもある。
”多様性”を描くことが必ずしも差別を描くことを必要とするわけではない。しかし現実と地続きの作品では、どうしても”いいとこ取り”が難しい地点がやってくる。
『アサシン クリード オデッセイ』はこのよさと歪みを一身に抱えたゲームだと、私は思う。
これからプレイする人向けのポイント解説
・PS4、XBOX、Switchなどのコンシューマーゲーム機だけでなくPCでもプレイできる(要求性能は高め!)。なおSwitch版はクラウドゲームなのでインターネット環境の影響を大きく受けるので体験版で動作を確認してください。
・プレイ時間はクリアしようと思うとかなり長め。でもちょっとやって雰囲気を感じるだけでも楽しいかも。
・かなり簡略化されているけど3Dアクションなので複雑な操作を求められる場面も。難易度を落としてプレイすることも可能なので色々試してください。
・左スティックでカメラを動かして右スティックでキャラを動かす操作は現代のゲームではほぼ標準的な操作方法!ここで慣れてみるのもいいかも。
・出来ることが多いのではじめはどうすればいいか戸惑う場面も多いはず……。迷った時はメニュー画面を見てみると吉!とはいえメニュー画面も操作が複雑なのですが。