バイセクシュアルの表象とモノの方を向くこと お引越しゲーム『Unpacking』をやってみた

文=近藤銀河
【この記事のキーワード】

モノから誰かを想像することと、モノに出会いなおすこと

※以下、ゲームのストーリーの結末に関わるネタバレがあります。

 ただこうした過程自体、ゲームが語る人生にとって大事なパートで、モノと場所を通して主人公に移入を促される物語の伝え方は本当に面白い。

 このゲームで中核を成すのは「このモノはなんだろう?」と考える、考えさせられる点だ。どこに置くかを真剣に考えなければならないから「このモノを主人公はどこに置くだろう?」と想像を働かせられる。

 そして人生の節目節目で引っ越しが行われることで、今あるモノという水平の広がりに時間という垂直な線が引かれてより広い理解が進む。

 モノに触れ思考を働かせることでモノが印象に残り、無くなったり増えたりするモノ一つ一つに物語を感じていくのだ。

 たとえば分かりやすいのは彼女の仕事と趣味のことだ。彼女の初めの部屋にはたくさんのフィギュアやゲーム、それにお絵かき道具がある。次の引っ越し先では部屋がキッチンやバスルームなど、複数の部屋になっていて一人暮らしを始めたことがわかる。ここでは絵を描く道具とスケッチブックが次々にゲームなんかのグッズと一緒に出てきて、趣味がそのまま生きる道になっていくことが予感される。

 彼女のモノはとても多いのだけど、それによってナード、つまりオタクな性質がとても深く表されているのも面白い。三つ目のステージはシェアハウスになっていて、リビングには友人のモノらしきセーラームーンのコスプレ衣装やミシンが飾られていたりする。彼女の人生を取り巻くこうした趣味は当時の時代を示す分りやすい指標であると同時に、クィアネスとオタクの結びつきが示されているものにも思える。後述するが彼女の女性パートナーもオタクであるらしいことが持ち物で示されるのだ。

 当然ながら、引っ越しに伴う荷物は別に全てが思い出深くエモーショナルなモノというわけではない。本作では引っ越しのたびに下着を衣装ケースの中に突っ込む場面が出てくる。小さくて大量にある下着は、他人のプライベートなものという感覚もあって、何度も触るのが本当に煩わしい。

 ただこの煩わしさは本作にとって重要なものなのではないかとも私は考える。創作の中で下着は色々な特に性的な意味を付与され他者のものになりがちだけど、本作では単に日常的で当たり前な荷物の一つとなる。『Unpacking』は引っ越しというメカニズムを通してモノに新しい光を当てていくのだ。

 また前回の記事ではゲームで生理が描かれにくいことを指摘したけど、本作では引っ越しの荷物として生理グッズが色々と描かれる。表現の中で気にされずにきたモノと出会い直させるのは(人によって琴線に触れるモノは違うかもしれないけど)『Unpacking』の良さだと思う。

 さらにそれらのモノはプレイヤーに想像をさせつつ、主人公の確固たる人格と正確な年代描写が想像を常に現実に立ち返らせる。それは時にメノラー(ユダヤ教で使われる六又に分かれた燭台)であったり、ニンテンドー ゲームキューブ(2001年に発売されたゲーム機)であったりして、主人公のアイデンティティを織りなす。一つ一つのモノはゲーム機から小さなDVDに至るまで、とても丁寧に描きこまれていて現実にあるアレだと知識があればわかるようになっている(ただその当時のことを知らないと、何か全くわからない謎の物体になってしまう)。

モノの方を向くことでみえるクィアな人生

バイセクシュアルの表象とモノの方を向くこと お引越しゲーム『Unpacking』をやってみたの画像4

 彼女のバイセクシュアリティも同じようにモノと時間の経過を通して描かれる。四つ目のステージでは彼女が男物の多い家に同居し、彼女が男性ジェンダーの人物と交際を始めたらしいことが窺える。それが次のステージでは第一ステージの子供部屋に戻って、その後で一人暮らしが始まり、今度はその家にナプキンや下着、レディースの服を携えた人が入居してきて二人で暮らし始める。

 この引っ越しと迎え入れの過程はそのどれもがアルバムに収められて彼女の記憶され共有される人生の一部になっていく。このゲームはそうした人生の重層性に、バイセクシュアリティを描くきっかけを見出す。開発者のインタビューでもバイセクシュアルを表現することがとても重要だったと語られている

 本作におけるモノとの対面は、だからクィアなものと響き合う。『Unpacking』は私たちが注意を向けてこなかった、向けさせられてこなかったモノに、グルっと注意の向きを変えて光を当てる。その時に、私たちはモノの違う側面に気づくと同時に自分たちが見てきたモノの見方の中に潜んでいた規範性にも気づかされる。

 クィア現象学を唱えた哲学者のサラ・アーメドは、クィアとは普段向かされていない方向へと向きを変えて見ることなのだと語っていた。たとえば、哲学者が向かう机の上の後ろにはたくさんの哲学者が語らないモノがあって、そこにはフェミニズムやクィアの可能性が潜んでいる。

 『Unpacking』が示すのはこの可能性だ。今、ここに、完成されたものとして切り取られた風景の背後にはたくさんのモノがある。そちらへぐっとプレイヤーの向きを変えて、考えさせてくる。

 セクシュアリティは時にその時その時の一場面を切り取られ、それによって物事を判断されてしまう。特に様々な性別の相手に惹かれるセクシュアリティの場合、個人の履歴は無視され、ある瞬間だけに注意が向けられてしまう。ゲームはこれに対してアルバムによって今という瞬間から過去の歴史へ向きを変え、切り取られた部屋の向こうにある全てのモノに触れさせることで主人公のクィアネスを示すのだ。

 またゲームに出てくる大量のモノが常に登場人物たちのオタク・カルチャーへの傾倒と結びついているのが個人的には嬉しかった。オタク・カルチャーとそれにハマることを軸の一つにした人生の中で、空想を通してクィアな可能性を描き人とつながることは、実感としてリアルなものでもある。その中では色々な傷つきの経験があり、またカルチャーへ抵抗する必要がある場面にも出くわすものの、私はそれがクィアな可能性につながるものだと思っている。こうして作品の中でそれが描かれるのはとても嬉しい。

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