『スープとイデオロギー』監督の母が韓国を否定し“北”を選んだ理由

文=新田理恵
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ヤン ヨンヒ監督

 観光地として人気の韓国・済州(チェジュ)島。「愛の不時着」などドラマや映画のロケ地などにも使われている美しい島だ。コロナ禍の前には日本からも大勢の観光客が訪れていたこの島で、近年まであまり語られることのなかった「済州4・3事件」について、監督の母親が語り始めるシーンから映画『スープとイデオロギー』は始まる。1948年、島民の抗議行動とその鎮圧作戦に端を発し、軍や警察らによって島民約3万人が無差別に虐殺されたとされる凄惨なこの事件は、韓国では長く語ることすらタブーとされてきた。

 ヤン ヨンヒ監督は、大阪出身のコリアン2世。これまで、北朝鮮を祖国として選択し、朝鮮総連の幹部を務めた父親を主人公にした『ディア・ピョンヤン』(05)、姪のソナの成長を中心に、北朝鮮に暮らす3人の兄の暮らしを映し出した『愛しきソナ』(09)という2本のドキュメンタリーで、日本と北朝鮮、2つの国の複雑な関係に翻弄されてきた自身の家族の姿を映し出してきた。さらに、初の劇映画『かぞくのくに』(12)でも、北朝鮮に移住し、病気療養のために一時帰国した兄の実話を元に、国や政治によって理不尽な目に遭う一家の悲痛な叫びを描いて高い評価を得た。

 『スープとイデオロギー』で主人公となるのは、大阪・生野区で生まれ育ったヤン監督のオモニ(母)だ。2009年にアボジ(父)が亡くなってから、大阪で一人暮らしをしている。前2作でかくしゃくとした姿を見せていたオモニも、アルツハイマー病を患い、記憶がおぼろげになっている。そして、語られていく70年以上前の「済州4・3事件」の悲劇。カメラを回しながら、ヤン監督もオモニという人を改めて知っていく。

 なぜ監督の両親は頑なに“北”を信じたのか? オモニの過去を知ることで、その疑問への答えが立ち上がる。

 テレビやインターネットを通じて、戦争という悲劇をリアルタイムで目撃している現在。戦争や民族、国の違いによる分断を見つめてきたヤン ヨンヒ監督の言葉には重く響くものがある。先頃、日本外国特派員協会で行われた記者会見の内容を一部抜粋してリポートする。

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ヤン ヨンヒ
1964年、大阪生まれ。映画監督。コリアン2世。米国ニューヨーク・ニュースクール大学大学院修了。朝鮮大学校文学部卒業後、大阪朝鮮高級学校の国語教師を経て、劇団員、ラジオパーソナリティ、ビデオジャーナリストとして活動。監督作品として、ドキュメンタリー映画に「ディア・ピョンヤン」(2005 年、サンダンス映画祭審 査員特別賞ほか)、「愛しきソナ」(2009 年)、「スープとイデオロギー」(2021年)。 劇映画に「かぞくのくに」(2011 年、ベルリン国際映画祭国際アートシアター連盟 賞、読売文学賞 戯曲・シナリオ賞ほか)がある。「朝鮮大学校物語」文庫版が6/10(金)発売予定。

口を閉ざしていたオモニの証言

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(C)PLACE TO BE, Yang Yonghi

――お母様は残念ながら今年1月に亡くなられました。映画を見せることはできたのでしょうか?

ヤン ヨンヒ監督(以下、ヤン監督) 母は2年前に脳梗塞になりました。その後は入院して寝たきりになり、ほとんど目が見えなくなってしまったので、この映画は見ていません。でも、母のテーマ曲のようにエンディングに流れていた曲を、耳にイヤホンを入れて聞かせると、半身不随で体が動かないはずなのに、音楽に合わせて足でリズムをとりはじめて、みんなで驚いたということがありました。

「韓国で1番売れっ子の、すごい映画の音楽監督が作曲してくれはったんやで」と言ったら、とても喜んだようでした(※本作の音楽監督は『JSA』『オールド・ボーイ』『タクシー運転手 約束は海を越えて』など数多くの韓国映画に音楽を提供しているチョ・ヨンウクさん)。

――「済州4・3事件」の証言を残したこの映画ができるまでに長い時間がかかったのは、お母様がなかなか口を開かなかったからでしょうか? それともヤン監督自身、心の準備を整えるまでに時間がかかったからでしょうか? 制作の経緯を教えてください。

ヤン監督 「済州4・3事件」というのは、大韓民国最大のタブーでした。1980年の「光州事件」も、話すことさえタブーだと言われていましたが、だんだんと人々が話すようになり、ドラマになり、映画になるという風に変わってきました。そんな韓国でも、「済州4・3事件」については、レベルの違うタブーでした。

母の中にも、“親戚に事件の犠牲者がいたり、事件を目撃や体験したことがバレたりすると、エライことになる”という絶対的な恐怖があったようです。

私が「済州4・3事件」を初めて知ったのは、1997年か98年頃でした。アメリカに留学に行く時に、48年に済州島で酷い虐殺があったということを偶然知って、済州島出身だった父に「済州4・3事件って知ってる? 知り合いや親戚、昔の幼馴染が犠牲になった?」と聞きました。父は42年に15歳で日本に渡ってきたので、事件の時は日本にいたのです。そのあと“北”を選んだので、故郷でどういうことが起きたのか具体的には知らないという答えでした。母は日本生まれなので、「あ、オモニは関係ないね。知らないね?」と言うと、その時は母も「知らん知らん」と答えたのです。

04年から05年まで『ディア・ピョンヤン』の編集をしている時に、改めて事件の本を読みました。というのも、直接両親に関係はなくても、やはり両親の故郷であんな虐殺があったとなると、両親が“北”を選んだ理由に関係しているのではと思ったからです。でも内容が膨大で、「済州4・3事件」まで入れると5時間の映画になってしまいます。両親は直接関係していないと言っていることですし、これについては「入れない」という判断をして、『ディア・ピョンヤン』を発表しました。

その後、実家に帰るたびに事件の話になりました。「オモニは済州島には行ったことないんやな?」と聞くと、「行ったことない」とか「ちょっとおったことあるけど」とか、母の答えが変わるのです。それで何だか変だなとは思っていました。

韓国の民主化が進むにつれ、「済州4・3事件」についての扱い方も変わっていきました。母は「済州島の話は聞かんとき」「残酷や」など済州島についてはネガティブなことしか言わないので、私から「あんなキレイなとこやのに? ハワイみたいや言われてるよ」「済州島は変わったし、事件の調査も進んで、だいぶ皆が語るようになったらしいよ」という話をしました。すると、少しずつ母も話し始めたのです。そうしたら、「(済州島に)婚約者がおった」という話をされて、「ええ!」とビックリして。これは証言として撮っておかなくてはということで、母の証言を撮り始めたというのがこの映画の始まりです。

でも、家族のドキュメンタリーを撮るのは、本当にもう嫌だと思っていたんですね。疲れ果てていましたし、一番の理由は、北朝鮮にいる家族への影響でした。95年から「もし迷惑をかけたら」という心配をずっとしてきて、鬱になったりもしたので、ドキュメンタリーはもう撮らないと思っていたのです。でも、母がとても大事な証言を始めたので、また少しずつ撮り始めました。

初めての劇映画『かぞくのくに』を撮った時、私が俳優たちと仕事をする姿を見て、母はやっと「娘はどうも映画監督になろうとしているみたいだ」と認めはじめたようです。同時に、自分たちの話が映画になるということにも意義を感じ始めたようでした。

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(C)PLACE TO BE, Yang Yonghi

昔は「娘がカメラを持って遊んでる」と思っていたけれど、どうやら「遊びではないみたいだ」と気づいた。『かぞくのくに』を見たあと、母に「あんたはホンマに腹が立ってたんやな」と言われました(笑)。(一家が置かれた理不尽な状況などに対する)娘の怒りは本当だなと、やっと認めた。それから、「あなたの仕事には一切口出ししない。自由に作りたいものを作ればいい。だから、体にだけは気をつけなさい」と言って、この映画に出てくるスープを私に毎月送ってくれるようになったのです。それで私も「じゃあ、オモニの映画も作るか?」と言ったら、どんどん話をしてくれるようになりました。

でも、これだけで長編は無理だと思って、最初は短編にしようかと思っていました。そんな時に、変な日本人の男性(ヤン監督の夫となる荒井カオル氏)が現れてですね(笑)、出会って3カ月くらいした時に、母にちゃんと挨拶しに行きたいと言うんですね。「(結婚相手に)日本人はだめ。アメリカ人はだめ」と言い、今でも金日成の肖像画を掲げているようなクレイジーな在日の家に挑む日本人がいる!――ちょっと面白いなと思って、そのシーンを入れて短編映画にしようかというくらいの気持ちでカメラを回したら、彼が母の元を初めて訪問した時の、あのシーン(オモニがスープを作って歓待する)が撮れた。それで、この人が入ってくると長編にできるのではないかと考えました。

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