「ホンモノか、ニセモノか? 当事者にあった、そんな文化が嫌い」ーー先日話を聞こうと、とあるLGBTQ+の支援団体を訪ね、スタッフと意気投合して長々話し込んだ。私が「自分は女性を好きになれないので、本当に自分に性別違和があるか自信が持てない」と何気なく言うと、そんな言葉が返ってきたのだ。
その人によれば、1990年代、当事者たちのあいだでは「男性はこうあるべき」「女性はこうあるべき」というものが、一般の世界以上に求められやすかったのだと言う。そんな話を聞きながら、私が自分を当事者だと思えなかったのは、そんな風潮を無意識のうちに感じ取っていたからかもなぁと思った。
10代のころには、自分も本当は性同一性障害なんじゃないかと思った時期もあった。だけど、やっぱり「ニセモノ」な気がする……。そう思うには、ふたつ理由があった。
ひとつは、女性を好きになれない、ということだ。
私が子どもだった90年代、多様な性の人がマスメディアで取り上げられるようになっていた。当時はトランスジェンダーに関するドキュメンタリーや再現ドラマも多くあった。しかし、テレビの向こうの彼らが体の性別を変える理由は、「同性愛を解消する」というものばかり。そういった情報に多く触れていたからか、私も「男性が好きか、女性が好きか」を自分に問うようになっていった。
そのころのことで、忘れられないエピソードがある。小学4年生、まだ恋愛感情がよくわからない年齢だった。それでも、男性であるはずの自分は女性を好きなはずだと思っていた。いま思い返しても我ながら気持ち悪い話だが、同級生たちに「女好き」だと思われたくて、女の子の体をベタベタ触っては「キモい」と白い目で見られていた(※90年代、『シティーハンター』の冴羽獠よろしく、かっこいいのに女性にはだらしない男性像が流行っていた気がする。たぶんそこに感化されていたのだと思う)。よく一緒に遊んでいたある女友だちのことが好きなんじゃないかと思いはじめた。友情だと思っていたが、これは恋愛感情ではないか? と考えたのだ。
その甲斐(?)あって、私は同級生からレズビアン疑惑をかけられたわけだが……それは、なんだかひどくショックだった。私は、女性が好きな女の子、と思われただけだった。女性が好きなら男の子、と思われたかったのに。女好き=男性である証明にはならないと突きつけられた。それにもかかわらず私は、女好き=男性だと、なぜか固執しつづけた。
その後も、何度となく女性を好きになろうと足掻いたが、どうしてもできなかった。
男性が好きでも「ニセモノ」じゃない?
女性を好きになれない私は、男性じゃない……そうあきらめ、女性として生きなくては、と思ったのが20代半ば。好きになる性別と性自認が無関係だと知ったのは、30歳を過ぎてからだった。初めて知ったときの衝撃は大きかった。
トランスジェンダーのなかには「MtF(Male To Female男性から女性)レズビアン」「FtM(Female To Male)ゲイ」などと呼ばれる人たちがいる。レズビアンやゲイと、トランスジェンダーが両立すると、そのときまで私はまったく考えもしなかった。もちろん「LGBT」がレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーの頭文字から来ていることはわかっていた。しかし、LGBの存在は認知しながらも、Tにも同性愛があるとはまったく考えなかったのだ。ダブルバインドも甚だしいが、男性は女性を好きに、女性は男性を好きになることが“自然”だと思いこんでいた。
その矛盾に気づいたとき、ひどく驚くとともに、心に小さな希望が湧いた。私も、自分を男だと思っても許されるのではないか、と。