ケアと癒やしの壮絶ノンストップアクション
~『マッドマックス 怒りのデス・ロード』 北村紗衣『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』より

文=北村紗衣
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 北村紗衣さんの新刊『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』(文藝春秋)の発売を受けて、8月5日に北村さん、そして評論家・荻上チキさんによる対談イベント「アメコミヒーローが戦っているもの」を開催します。

 本記事は『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』に収録されている「ケアと癒やしの壮絶ノンストップアクション
~『マッドマックス 怒りのデス・ロード』」の転載になります。まだ書籍を購入されていない方、またイベント参加を検討中の方は、ぜひこちらをご参考ください)なお枚数限定で書籍付きイベントチケットもございます)。

ケアと癒やしの壮絶ノンストップアクション
~『マッドマックス 怒りのデス・ロード』 北村紗衣『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード』よりの画像1

ケアと癒やしの壮絶ノンストップアクション
~『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(二〇一五)は文明が破壊された砂漠が舞台である。ヒロインのフュリオサ(シャーリーズ・セロン)は独裁者でカルトの指導者であるイモータン・ジョー(ヒュー・キース・バーン)に軍人として仕えてそこそこ出世していたが、これまでの贖罪のため、イモータン・ジョーのもとで性奴隷として子どもを生まされている五人の女性たちを助けて逃走することにする。それをこれまたイモータン・ジョーの手先につかまっていたマックス(トム・ハーディ)が成り行きで助けることになる。一行は追っ手を振り切ってフュリオサの一族であった女たちが住むところまで逃げ、新天地を目指そうと考える……ものの、マックスの説得でこれ以上放浪するよりはイモータン・ジョーを倒して砦に安全に生きられる環境を作ることを目指すほうが良い賭けだと考え、最後の戦いにのぞむ。

 主人公が行って帰ってくるだけという、神話のような単純な構造の作品だ。ひっきりなしに試練と血みどろの暴力が繰り返されるあたりもホメーロスの叙事詩かというような作りである。本作は非常に単純に見えるが、おそらく作るほうは基本的なストーリーテリングの構造をきちんと押さえた上で、考え抜いて作っている。

 この映画は「『テルマ&ルイーズ』以来の最もフェミニズムに肯定的なアクション映画」(Wloszczyna)と言われているだけあって、おそらく近年作られたビックバジェットのアクション映画としては明白にフェミニスト的で、女性客を意識した作品である。これは作り手のジョージ・ミラーが意識的にそうしたようで、強制結婚の犠牲になった女たちを物語に織り込むにあたって、『ヴァギナ・モノローグズ』(一九九六年初演のこの芝居はフェミニストの中でも賛否両論あるものなのだが)の作者である有名なフェミニストの文人・活動家であるイヴ・エンスラーを協力者として呼んだというのだから実に気合いが入っている。ボコ・ハラムやISISなど、紛争下における女性に対する性暴力があとをたたない世界の中でリアリティを重視するのならば当然のアイディアとは言えるのだが、これをアートハウス映画や社会派の小さな予算規模の映画ではなく、規模の大きいアクション映画でわかりやすくやったという点に革新性がある。性暴力が大きなテーマであるにもかかわらず、性暴力シーンを「セクシーなもの」としておまけのように出してこないのもフェミニスト的だ。

 全編にわたり、この映画は家父長制と資本家の支配にもとづく世界がいかに残酷なディストピアであり、そこからはじき出された女たち、男たちがどんなにひどい扱いを受けているかということを爆発と流血をたっぷりまじえて描いている。女たちが搾乳機扱いされたり、またセックスと子孫維持のためだけの道具として扱われたりする一方、男たちはウォーボーイズとして洗脳を受け、どんなに虐待されても名誉のために死ぬことが一番素晴らしいことだと信じて、自分を抑圧する制度の維持に貢献してしまう。男は兵士になって命を売り、女は娼婦となって性や生殖の能力を売るということが労働力搾取の最悪の形として鋭く批判されている。イモータン・ジョーが支配する世界は、この人間に対するジェンダー化された労働力の搾取を最悪のところまでつきつめることでできあがっている社会である。

 フュリオサとマックスはほぼ同等に助け合うアクションヒーローであり、かつ恋に落ちないドライな同志だ。フュリオサがマックスの肩越しに銃を撃つ場面は二人の対等な協力関係を一場面で明確に描き出している。イモータン・ジョーの犠牲になった強制結婚の妻たちも単なるかわいそうな犠牲者ではなく、トラウマと抵抗の間で揺れ動く人間性豊かなキャラクターとして描かれている。最後に出てくる鉄馬の女たちも生き生きしており、若い女性ばかりではなく、老婆たちも活躍する。

 しかしながら、この映画で面白いのはむしろ男性像のほうかもしれない。この映画は爆発やら殺人やら、非常に荒っぽい画面が息もつけないようなスピードで続く作品だが、実は強制結婚被害者の女性たちの心の回復などもまじえてケアや癒やしなどのモチーフを細かいところにうまく盛り込んでいる。とくにしばしば女性の属性とされるケアの力を、男性も持ち合わせているものとしてかなり前面に出している。

 まず主人公のマックスだが、彼はイモータン・ジョーの社会を支えているような家父長制的な見栄に全く興味を示さない一匹狼で、さらに女性を性的対象として貶めたりすることがなく、常にドライだ。見栄を張ることがないので、自分よりもフュリオサのほうが射撃の腕が上だと思ったらためらいなくフュリオサに銃を譲るという、今までのアクションヒーローからするとなかなか考えられないような行動もする。しかしながらマックスはドライな一匹狼のくせにここぞというところでは人をケアする能力に長けた男であり、伝統的に女性の役割とされているような人を癒やす力を持っている。最初にマックスは誰にでも輸血できる血液型の男だとしてウォーボーイズに囚われ、ニュークス(ニコラス・ホルト)に血液袋扱いされるが、ここが最後の伏線となっている。終盤でマックスは、自分の血を弱ったフュリオサに与えることで生き延びさせるという極めて思いやりに富んだ重要なケアを行う。ここには暴力としての流血vs癒やしのための輸血という対比もあるだろう。

 さらにマックスはケアの力だけではなく知恵も持っている。フュリオサが古典の英雄のように生きているのに対して、マックスは日本神話の「妹の力」ばりに、英雄フュリオサが誤った決断(一六〇日の放浪)をしそうになった時、知恵とケアで正しい道、故郷に落ち着く方法(これが血で書かれているというのがまた神話的であるが)を指し示す。こうした知恵やケアで英雄を助け、もとの場所に帰す人物という役は女や老人に与えられることが多いが、この映画では放浪する英雄であるマックス自身が知恵やケアをもたらす役割も果たしている。マックスは神話的でかつ伝統的に女性のものとされているような美徳を与えられたヒーローという点で新鮮だ。

 さらに興味深いキャラクターはニュークスである。ニュークスは、最初はなんでも破壊してしまうような粗野なウォーボーイとして描かれ、イモータン・ジョーを崇拝する一方でマックスを血液袋扱いする。しかしながらイモータン・ジョーの信頼を失った時、癒やしを与えてくれたケイパブル(ライリー・キーオ。イモータン・ジョーの強制結婚犠牲者のひとり)に感化され、壊す男から車を直す男、つまりはケアと癒やしを司る男へと変貌し、最後は自己犠牲によって他の者を守るという行動に出る。ウォーボーイとして短い人生を運命づけられたニュークスの自己犠牲は悲劇的で高貴な行いとして描かれているわけであるが、このニュークスの物語においては、破壊のみを行うことの無益さ、そしてケアと癒やしこそが人の心を動かすものであるということが暗示されている。

 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は非常に単純に見えるノンストップアクションである一方、神話的な作りが垣間見えたり、繊細なモチーフがところどころに織り込まれていたりする。アクション映画における男女両方の役割を問い直すフレッシュな作品であると言えるだろう。何も考えなくても楽しめるが、いくらでも考えることができる映画である。(個人ブログ「Commentarius Saevus」二〇一五年六月二五日)

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