オードリー・タンも抱えた葛藤
「男性とか女性とか、みんなそんなに意識してるわけでもないのに、なんでそんな細かいことばかり気にするんだろう……」
性別違和を持つ人、トランスジェンダーの人と一度でも話したことがあるなら、心のどこかで、こんなことを感じたことはないだろうか?
私も、初対面のトランス女性と話をしたとき、何気なく「さん」付けしたら「ちゃん、だよ」と、訂正されたことがある。「さん」という敬称を、私は男女問わず使っていた。親しくもない相手に「ちゃん」付けするのはかなり抵抗があって、ついつい「さん」付けになってしまった。その度に「ちゃん、ね?」と訂正されて、私はすっかり萎縮してしまった。私からすれば、相手の性別を名指しする意図なんてはなかった。しかし、その人にとっては、男性扱いを受けるような屈辱感があったのかもしれない。
性別違和を持つ人は、とにかく性別に敏感で神経質だ。それはどうやら、どんな偉人でも、同じらしい。
毎年4月末から5月にかけて行われる東京レインボープライド。2020年に引き続き、2021年もコロナ禍のためオンライン開催だった。さまざまな豪華ゲストを招いたトークイベントが行われたが、そのなかに、台湾のデジタル担当相、オードリー・タン(唐鳳)氏へのインタビューがあった。私にとって印象深かったエピソードを紹介する。
それは、タン氏が改名したときの話。性に関して葛藤はあったのか? と問うインタビュアーに対し「名前を変えることは、いちばんのチャレンジ挑戦だった」と応えていた。(※インタビューを聞くと、タン氏もそんなにわかりやすいトランスジェンダーというわけではなさそうだと感じる。少々長いが実に見応えがある。【特別ゲスト:オードリー・タン】自由への手紙 -東京レインボープライド特別編- 【COURRiER JAPON × TRP コラボ企画】で見ることができるので、ご興味のある方はぜひご覧いただきたい。
タン氏はトランスジェンダーで、三人称の表現も「彼女」だ。また、名前も「唐宗漢」から、「唐鳳」に改名している。中国では男性的な語感がある「漢」を変更したかったそうだが、「鳳」は男性でも女性でもない「ノンバイナリー」なものにしたいと、選んだそうだ。
世界的な有名人であっても、名前の性別にそこまでこだわるものなのか、と正直驚いた。
かく言う私も、かなり神経質だ。
「彼女」と言われるのも、「私たち女子は」と一括されるのも、「女子会」などと称されるのも極めて不愉快だ。いつどこで、誰が私をどのように女性扱いしたか、過去10年くらいなら、覚えていたりもする。だが、それをいちいち目くじら立てて指摘することは、相手の負担になるので、気にしないふりをしている。
いや、正直に言おう。へたに口に出して、煙たがられるのが嫌なだけだ。以前、仕事で知り合った人に、性別違和について打ち明けたことがあった。そのとき、
「あなたが『自分は男性だ』なんて言うから、周りの人が気にするんじゃないのかな? 言わなければ誰も意識しないよ」
と、アドバイスを受けたことがある。本当は誰もが男性と女性とで態度を変えているのだけれど、無意識すぎて気がつかないものだ。その、誰も気づかないようなものが、私には棘のように突き刺さり、いつまでもずっとそこにありつづけてしまうから、つらい。だが、そのときは、私は何も言い返せず「ですよねー」とヘラヘラ笑うことしかできなかった。
どう足掻いても「女性」から逃れられないこと
そう、こんなことは個人の悩みに過ぎない。自分が気にしなければいい……。
私もそう思い、「相手に女性だと思わせない」ことをいつも最優先にして行動を選んできた。だが、それって選択肢をかなり狭めることだった、と最近思えるようになってきた。
小さなことで言えば、服や持ち物のデザイン、色。ピンク、赤、レース……女性が身につけそうなものは、「いいな」と思っても、選択肢から除外した。趣味や行動も女性っぽくないことを大事にした。昼間の公園など男がいない場所は避け、女性と連想されてしまいそうな事柄からは極力距離をおいた。
そんな女性への忌避感は、経済的に追い詰められても消えなかった。一度転職先を決めないまま会社を辞めたことがある。貯金がみるみる目減りしていくなか、食いつなぐためのアルバイトを探したのだが「女はアルバイトでも生きていけていいよなぁ」と誰かに思われてしまいそうで、うまく仕事を探せなかった。性別ごときがなんだ、収入のほうが大事じゃないか!と自分を説得しても、気がつくとそのことばかり気になってしまった。
女性と思われないことばかりが、最優先だった。何をするにも、性別が心の枷になっていた。そして、そんなくだらない枷を取り外せない自分が実に恥ずかしかった。
もちろん、女性を連想されるものに興味を持ったり、惹かれることはある。そんなときは、心のなかで女性にマウントを取ることにしていた。就職先の例で言えば「育休産休も充実」という文字を見るたびに「これだから女を雇うとめんどくさいよなぁ」という具合に。そうすることで、女性性と距離を置こうとしていたのだ(いわゆる「サバサバ女」だったわけだ。そのせいか、そうした女性を揶揄されたものを見ると、何かしら抑圧されているんじゃないかと変な心配をしてしまう)。
だが、どんなに言い訳をしても、どう足掻いても、女性から逃れられないことがあった。それが、妊娠し、出産することだ。
「女性に産まれたからには責任として、子どもを産まないといけない」という思いと、「私は男性なのに、なぜ母親にならなきゃならんのだ」という気持ちが、同じ熱量で自分を責め立てた。あらゆる言い訳を考えても、「女性性」から逃れられなくなっていた。
そんな状況に自分を追い込んでいることに、私はずっと無自覚だった。突破口となったのが、自分と同じジェンダー・アイデンティティの人との対話だ。
Xジェンダーの集まりに顔を出していたものの、子どもがいる人や子どもを持ちたいという人にはなかなか出会えなかった。Xジェンダーという言葉が新しいせいか、比較的若い人が多い印象だった。
(やっぱり子どものことになんて執着する自分のほうがおかしいのかな)
心が折れそうになった矢先、偶然、ある写真を見つけた。