9月11日
『ボクらの時代』(フジテレビ)は福山雅治、柴咲コウ、北村一輝が出演。福山雅治は、番組に出るとそれなりになにか興味深い発言をすることが期待できるので見てしまう。
こういう番組で俳優がメンタルヘルスについての話をするイメージが以前はなかったけれど、最近は少し変わってきたのかなと感じた。
柴咲コウが、数カ月拘束され没頭する俳優の仕事にもメンタルケアの必要を感じると言うと、福山雅治は、コロナ禍でエンターテイメントの世界が自粛になったが、二年ぶりに有観客でライブをやったときに「こんなにも音楽が自分にとって必要だったんだっていうことを実感した」「生のライブ、雄観客でのライブをやったときに生き返ったと思った。こんなに必要だったんだと思った」と語っていた。
福山雅治は、たぶんメンタルケアの文脈から、音楽やライブをすることが、自分のメンタルケアになっているという話をしているのだろう。
福山は「こんなにも自分にとってライブや音楽が必要だったんだとオーディエンスや会場が思わせてくれて、音楽家として逃げられない体になっちゃってるんだなと実感した」とも言っていた。
それは、ライブをしている人なら誰でも実感することなのかもしれないが、コロナ禍を経て、もっというと50歳を超えてもなお、ファンに求められることの必要性を感じているのかなと思った。
たぶん、人を魅了する仕事を長く続けることはたやすくない。若い頃は、その人気に困らされたりすることもあるだろう。
同時に、あれだけ多くの人に必要とされる商売には魔力のようなものもあるのも感じられる。しかし、コロナ禍でそれが途切れたことで、自分にとってどれだけ必要な仕事であったのかを感じたり、人に求められることが、逆にメンタルヘルスの健康に繋がって、「生かされている」と感じたりするんだろうなと思った。そう考えると「スター」というのは、改めてエモい商売だなと思った。
9月12日
『あしたの内村!!』(フジテレビ)は、寺田心くんとぼる塾田辺さんの組み合わせで台湾グルメを紹介する。ふたりとも食への関心が強いことが共通している上に、心くんが田辺さんを「先輩」と呼び、コメントも気が利いているため、田辺さんも「やりやすい」「一生一緒にやっていきたい」と絶賛。普段はときおり忘れることもある田辺さんの持ちワードの「まーねー」も前半で自然に二回も出ていた。田辺さんは、「尊敬できる仲間を見つけた感じ」とも言っていた。
最後に心くんが「今日は台湾料理だったけど、日本にもたくさんありますから」と言うと、田辺さんも「いろんな国のおいしいものをふたりで回ります」と次につなげようとしていたのも微笑ましい。見ていてもめちゃめちゃいいコンビで、毎週やってもらいたいくらいだった。
9月17日
『相席食堂』をTVerで。ロケに出ていたのは千原せいじ。熊本県の湯島という離島で島に200匹いる猫の世話をしている女性と出会い、島を案内してもらう。途中でその女性に「独身?」と聞き、「独身です」と答えると「人生の管理せな」と言っている場面を見てしまった……。見てない人はそれでも笑いのトーンがあったのだろうと思うかもしれないが、実際はもっと殺伐とした感じだった。
この番組は、ロケの場面にはその様子を見て千鳥のふたり(この回はノブ不在のためネゴシックスが出演)がつっこむという形式になっている。そのため、笑いのトーンのない場面であっても、千鳥のつっこみを期待する空気がある。
なかでもこの番組では、千原せいじの、ロケで出会う人に対するぶしつけな態度をおもしろいと感じる視聴者もいるそうだ。今回で8度目の登場で番組最多出演なのだという。そういうこともあり、島民との歯に衣着せぬ物言いでコミュニケーションが繰り広げられていたのだろう。
千原せいじは、帰り際にも再度その女性に、「猫の面倒みるまえにもっとせなあかんことあるけどな」とダメ押しをしていて、言われた女性が「はーい、すんませーん」と笑いながら返していた。大悟は「そんなこと言う?」とつっこんでいたのがせめてもの救いだった。
合間のMCで大悟とネゴシックスは、弟である千原ジュニアを引き合いにだし、「ジュニアさんが変わったんかな。ジュニアさんがどんどんせいじさんと離れて人になっていったんかな」「制御して」「人間何もしなかったらせいじさんになる」と話していた。
9月18日
NHKスペシャル『“中流危機”を越えて 第1回 企業依存を抜け出せるか』。企業が負のスパイラルから抜けられない中、個人が稼ぐ力を取り戻そうとする模索が始まっているという趣旨の番組であった。
Twitterなどでは、個人に現在の不況のツケを払わせすぎだという意見が見られた。私も、現在の不況は、個人で解決するのは到底無理なことであると思うし、もしどうにかするのであれば政治で変えないとどうにもならないと感じる。
番組を作る側が、なんらかの希望を見つける終わり方でないといけないのではと考えたりするのはわかる。少し前ならそれでもよかった。ただ、現実がどうにもならないとき、おためごかし的なポジティブさ、しかもそれが個人の努力にかかっているというのでは、もう許されないところまできているのだなと思った。