相手の家事のやり方に不満があるときは
ツレはきれい好きなんです。毎朝掃除機をざっとかけて、3~4日に1回ぐらいは雑巾掛けもして。定期的に窓ふきや細かいところの掃除もする。私は……向こうに言わせるとダメダメのようです。一緒に暮らす前、うちに来て「掃除したくて仕方なかった」と後から言われました。私にとって十分なレベルが、向こうにとっては低かったみたいです。
洗濯は気がついた方、そのとき手が空いてる方がやります。相手が干してくれたから、私は畳むといったふうに、半分ずつやることも多い。でもツレは、干し方などもっと「こうしてほしい」というのはあるようですね。私は雑なんでしょう。こだわりがあるものは「自分でやるから」と分けられます。ただ暮らしていて「こうしろ」という圧をツレから感じたことはないんですよ。ひょっとしたら料理に関しても、「もっとこういう味つけがいい」「この食材あまり好きじゃないな」と思っているのに、黙っていてくれてるのかもしれません。
そうだ、一度「あなたの好きな食べ物を10個書き出して」というゲームをやったことがあるんですよ。一緒に暮らして5年目ぐらいだったかな。私が予想して先に書いておいて。10個中、当たったのは4個でした。まだまだですね。
相手に対する小さな不満は、そりゃお互いにいろいろあるでしょう。だけど相手を変えようとは思わないですね、ここはおたがいにそうかもしれない。
まだ一緒に住みだして時が浅い頃、なくなりかけたトイレットペーパーに関して私が少々感情的に言ってしまったことがあるんですよ。「いつもほんのちょっとだけ残して、替えないよね」って。即座に「こっちもずーっとそう思ってきたけど?」と言い返されて。そのとき腹が立つではなく、「ああ、自分が思ってるようなことって大体は相手も思ってるんだろうな」とスッと思えたんです。ツレが何かにつけ「もっとこうして」「もっと変わって」と言ってくる人だったら、そうは思えなかったかもしれない。
やってくれたことに気づける力が必要
誰かと暮らしていくならば、相手がやってくれたことに気づける力、ってのが必要だと思うようになりました。人間って「ない」とか「汚れている」とか「散らかっている」ことにはすぐ気づく。でも反対のことはスルーしちゃいがちじゃないですか。散らかってない、汚れてない、足りているのは、そうしてくれた人がいるから。散らかっていると「きれいにして」と思いがちだけど、きれいな状態のときに「ああ、きれいにしてくれてるな、整頓してくれたんだな」と気づけるかどうか。そういうのに気づける力って、「共同生活力」だと思う。
冷蔵庫に牛乳がないとか麦茶が少なくなってるとかは気づけるけど、あれば何も考えずに飲んでしまうもの。そのときに「いつも買ってきてくれてるんだよな」「補充してくれてありがとう」と思える人でありたいなと、日々の家事をするようになって思いました。ツレがそういう人なんです。あの人は共同生活力、高い。見習わなきゃなと。せめても何かしてくれたことに気づいたときは、ありがとうを伝えるの、気をつけてます。向こうも毎度言ってくれるしね。ありがとうは「伝える」とか重く考えずに、口癖にするのがいい。
家事の大変さって、やっぱり「続けてやってみる」まで全然分からない。私は分かりませんでした。毎日自分とツレの分の料理を用意するという複合的な仕事の大変さを。献立を考えて、買い物して、あるものや残り物も食べていき、なるたけ無駄を出さないようにして、栄養も考えて、使ったものを洗って片付けて……と、それが延々と休日無しに続いていくという労力。
頭でわかっているつもりになってるんですよね。うーん、世の中男女問わず、年齢も関係なく、家事の経験がないと「大げさな」「そんなに大した技術が要るものじゃないでしょ」なんて思ってしまう人がやっぱり少なくないと思いますよ。
今ね、よく思うんです。母の日にあげるべきは肩たたき券やエプロンじゃなかったな、と。最低でも丸2日、おこづかい付きで旅行に出してあげたかった。まったく何もしない連続する時間が必要だったろうなーと思うんですよ。家事の連続は、たまのランチぐらいじゃ骨休めになるもんじゃない。そして帰ってきたとき、家の中が汚れてないのも重要ですね。帰ってきて大仕事だったらイヤだろうし。
気分転換・息抜きとしての家事
この9月でちょうど共同生活7年目に入るんですよ。最近ようやく、「真面目にやりすぎない」がラクにできるようになってきました。以前は遊びに行くとき、必ずツレのご飯を作っていたんです。この頃は毎度ではなく、「適当にすましといてー」と相手に任せられるようにもなりました。向こうもいい大人で、ちゃんと自炊力ありますから。ただやっぱり作っておくと嬉しそうなんで、なるべく作ってあげたいですけどね。
そんなふうに殊勝に思える日もあれば、どーにも作りたくない、一切考えたくないという気分に陥る日もある。バイオリズムというのか、理由はないんですよね。ポジティブに捉えてマインドセットしようとしても、本人の性格もありますし、限界がありますからね。そういうときは休むのが一番じゃないかと。以前は「疲れてるのかな。でも担当なのに作れなくて、いや作りたくなくて、わがままだな。申し訳ない」と感じて、ますます疲れてたんですよ。今は「理由は特にないんだけど作りたくないんだ、ごめん」と正直に言うようにしています。相手もそれで不機嫌になるような人じゃないですし。あまり自分を責めないようにしています。
家事って面倒でもありますけど、気分転換になるときもあるな、と思うんです。普段は面倒に思いがちな野菜の皮むきとか、細切りにするとかが「今日はやってみようか」と思える日もあって、こまごまと作業していると集中できて、無心になれるような日もあって。料理に限らずですけど、気分転換の方法をいくつか持っている人は強いな、とよく思いますね。
最近、家事もコミュニケーションなんだなと思うようになりました。向こうが掃除機かけようとし出したら、床に置いてるものを片づける。なるべく掃除しやすいように。こっちが料理そろそろ完成と伝えたら、ツレはテーブルふいて箸や取り皿出し始める。それはルーティーンというより、「相手がやりやすいように」という思いのキャッチボールだなと。いい球返ってきたら気持ちいいし、こちらもなるべくいいとこに投げ返したいですね。家事じゃないけど、相手が休んでいるときは生活音をなるべく静かに抑える、なんてのもひとつのコミュニケーションで、キャッチボールみたいなもんじゃないでしょうか。これから年齢に応じて、必要な家事の姿も変わってくると思うんです。いい球を返し合えるようにしたいですね。