
写真:picture alliance/アフロ
先月、ディズニーの実写映画版『リトル・マーメイド』のティーザートレイラーが公開されました。『リトル・マーメイド』は1989年にアニメ映画が公開され、低迷気味だったディズニーに大ヒットをもたらしました。ディズニー・ルネサンスと言われる、ディズニーにとっての復活の時代の始まりとなった映画だと言われています。
『リトル・マーメイド』のヒロインである人魚のアリエルを実写版で演じるのは、黒人女性であるハリー・ベイリーです。ベイリーは歌唱力が抜群で、アニメか漫画から出てきたようなちょっと浮世離れした雰囲気もあり、ディズニープリンセスにはぴったりだと思いますが、アニメ版のアリエルは赤毛でどちらかというと白人に近い容姿でした(人魚に人間同様の人種があるのかどうかはあまりよくわかりませんが)。このティーザーは前作では白人だったアリエルが黒人になったということで人種差別的な攻撃を受けることとなりました。本作のキャスティングについては既に2019年のキャスト発表時にも人種差別的なコメントが発生しており、かわりばえのしないことです。
そもそも『リトル・マーメイド』の原作であるハンス・クリスチャン・アンデルセンの『人魚姫』(1837)には、今なら人種、階級、セクシュアリティなどの話として読みかえることもできそうな、アイデンティティに関わる大きなテーマが含まれています。
『人魚姫』は、ヒロインである人魚姫が恋と不死の魂を求め、魔法で人間の姿になって恋の対象である王子に近づくものの、結局王子の愛は得られず、空気の精になるという物語です。この物語は、ある種の「パッシング」の物語として読むことができます。「パッシング」というのは、人種や性的指向など、差別や偏見の対象になりそうなアイデンティティにかかわることを隠して周囲に溶け込み、社会に適応して暮らすことを指す言葉です。アメリカのような社会で非白人が白人として暮らしたり、同性愛差別のある地域で同性愛者が異性愛者として暮らしたりするような状況をパッシングと言います。
人魚姫が求めるもの
姫は、陸の上でも海の中でも、自分ほど美しい声を持っているものがないと思うと、一瞬間、心に喜びを感じました。けれども、すぐまた、上の世界のことが思い出されるのでした。そして、あの美しい王子のことや、王子のように不死の魂を持っていない悲しみを、どうしても忘れることができませんでした。(中略)「あのかたと不死の魂とが、わたしのものになるならば、わたし、なんでも思いきってやってみるわ!」(大畑訳、pp. 137–138)
わたしのこの眼がちがっていれば、つまり、美しかったとしたら、わたし自身もちがっていたはずだ、という考えが、ピコーラの心に浮かんだ。歯はきれいだったし、少なくとも鼻は、とてもかわいいと思われているある子供たちの鼻ほど大きくも平べったくもない。(中略)たぶん、他人は言うだろう。「まあ、きれいな眼をしたピコーラをごらん。わたしたち、あんなきれいな眼の前じゃ悪いことをしてはいけないわね」と。(中略)青い眼にしてくださいと、毎晩かならず彼女は祈った。(トニ・モリスン『青い眼がほしい』大社訳、p. 54)
上に並べたのは『人魚姫』と、トニ・モリスンによる『青い眼がほしい』(1970)の1節です。19世紀のデンマークの童話と20世紀アメリカの人種差別を描いた深刻な小説の間には時代、地域、扱われている差別の現れ方などの点で大きな違いがありますが、両方に共通していることは、ヒロインが、自分が「人間らしい」生き方から疎外されていると考え、人間であるためには姿を変えることが必要だと思っている点です。
人魚姫は自分が恋している人間の王子と、さらに人魚は持っていないが人間は持っているという不死の魂を求めており、そのためには人間の脚が必要だと思っています。
『青い眼がほしい』のヒロインである11歳の少女ピコーラは、自分が育った悲惨な家庭環境から逃れるためには、白人の女の子のような青い眼があればよかったのではないかと思い、白人中心の美の基準に基づいて自分の姿を評価しています。
童話に出てくる海の王女である人魚姫と現代小説に出てくる貧しい家庭の娘であるピコーラは一見、似ても似つかないヒロインに見えますが、2人とも自分とは違う、ある種の「上の世界」の人々の価値観に合わせることが人間らしく生きることだと考え、多数派が美しいもの、当然のものとする身体的特徴を求めています。
『人魚姫』が扱っているのは、20世紀、21世紀になっても文学作品に繰り返し登場する、マイノリティに課される厳しく画一的な美の基準と、その裏に潜む差別や偏見です。
現実世界で生きていくほかないピコーラとは違い、童話の世界のヒロインである人魚姫は魔女に頼んで脚を獲得し、人間としてパッシングできるようになります。しかしながら、パッシングのために人魚姫は大変な苦痛を経験しなければなりませんでした。人魚姫は魔女と取引をする際、望みが叶えられるのと引き換えに、歩くたびにナイフで刺されたように脚に走る痛みに耐えねばならないという条件をつけられ、さらに舌を切られて声を奪われます(大畑訳、pp. 140–142)。
前者の痛みは、人が自分のアイデンティティを隠して生きていかなければならなくなった時に感じる精神的なつらさを身体的な痛みとして表現していると解釈することができます。
後者の声を奪われることについて人魚姫は「でも、声をあなたにあげてしまったら、あとに何が残るでしょう?」と魔女に問い、魔女はそれに「そんなに美しい姿や、軽い歩きぶりや、ものをいう目があるじゃないか。それだけあれば、人間の心を夢中にさせるくらい、なんでもないやね!」(大畑訳、p. 142)と答えています。
人魚姫は話したり歌ったりすることを自分にとって非常に大事なことだと考えているのですが、それでも恋と魂のためにそれを投げ打ちます。ここで魔女は人魚姫に対して、女性は姿が美しければ言葉で自己主張ができなくてもよいということを述べていますが、これは女性は物静かで何も言わないほうがよいという近世以来の女性観にのっとったものである一方、おそらくは話し方で出身地域や出身階級など、生まれや育ちがある程度他人にわかってしまうことをも念頭に置いているのかもしれません。人魚姫が口を利けば、自分が実は人魚で海で育ったということがバレてしまうかもしれません。声を奪われれば、自分の気持ちを王子に伝えることができなくなるかわりに、話しぶりや話の内容で素性がわかる危険性もなくなるわけです。
今まで生活していた環境から引き離されたり、引け目を感じているところを隠さなければならなくなったりすると、用心しすぎて口数が少なくなってしまったり、言いたいことが言えなくなってしまうというような経験をしたことがある人はいると思います。人魚姫が人間の姿を得る代償として歩くたびに痛みを感じ、話せなくなってしまうというこの状況は、一見したところ残酷で現実離れした魔術を描いているようですが、実はアイデンティティに関することを隠してパッシングせねばならなくなった人の多くが経験する苦痛を象徴しているものだと言えるでしょう。
1 2