
Motion Picture Production Code (Hays Code), cover of a paper copy.(wikipedia Commonsより)
ハリウッド映画には「プレコード・ハリウッド」という分類があります。これはトーキーが始まった1929年~1930年頃から、通称「ヘイズ・コード」ことモーション・ピクチャー・プロダクション・コードが厳密に施行されるようになる1934年の7月頃までのハリウッドを指しています。
ヘイズ・コードは保守的・道徳的な見地からハリウッド映画の内容を規制する決まりで、このコードが遵守されるようになる前と後ではハリウッド映画の描写にかなりの違いがあります。
ハリウッド映画史を考える上では重要なヘイズ・コードですが、なんとなく「エロや暴力を規制するお堅い決まり」というようなイメージで受け取られており、実際にどんなものだったのかについて詳しい知識を持っている人は多くありません。
また、その影響については施行前後の映画を比べる必要がありますが、そもそもプレコード・ハリウッドの映画を見たことがある人じたいがあまりいないのが現状です。何しろトーキー初期の映画といえば現代の感覚からするとかなり昔の作品で、さらにごく短い期間に作られた映画しか該当しません(これ以前だとサイレント映画の時代になるので、全く見たことがない人がほとんどでしょう)。
このため、この連載ではこれから何回かに分けて、プレコード・ハリウッドの映画について解説をしていきたいと思います。今回はまず、ヘイズ・コードがどういうものだったかについて簡単な説明をします。それ以降はプレコード映画のうち、とくにジェンダーやセクシュアリティの観点から見て面白いものを何本かとりあげてレビューしていきたいと思います。
ヘイズ・コード前史
モーション・ピクチャー・プロダクション・コード、通称「ヘイズ・コード」は一夜にして作られたものではありません。サイレント映画の時代から、映画の性、暴力、飲酒、犯罪描写などが不道徳だというような批判は既にありました。こうした批判が1920年代初めに高まったため、1921年には後にパラマウント映画となるスタジオであるフェイマス・プレイヤーズ=ラスキー・コーポレーションが裸や挑発的なダンス、凶悪犯罪、白人女性の性的奴隷化などを扇情的に描かないことを誓う14か条を作りました。
1916年に設立されたアメリカの映画業界団体である全国映画産業協会 (National Association of the Motion Picture Industry、略称NAMPI) も同じく1921年に13か条のガイドラインを出しています。しかしながら、こうした決まりはあまり守られてはいませんでした。
1922年に新しい業界団体であるアメリカ映画製作配給者協会 (Motion Picture Producers and Distributors of America、略称MPPDA) が作られ、郵政長官であった共和党の政治家ウィル・H・ヘイズがトップに就任します。ヘイズはPRに強い関心があり、映画業界のイメージ向上を目指していました。
政府による検閲を回避しつつ、映画における道徳の描かれ方に不安を抱いている人々からの批判に対応しようとして、ヘイズは規制に乗り出しました。当時の映画界は作品の内容に対してのみならず、スターのスキャンダラスな私生活についても批判を受けており、イメージの改善が必要だと考えられていました。ヘイズのオフィスは、1920年代半ばには既に刺激的な内容の小説や戯曲の映画化をブロックする方針を明確にしていました。1927年6月には、西海岸の業界団体であったアメリカ映画プロデューサー協会(Association of Motion Picture Producers、略称AMPP)とMPPDAが映画制作時にすべきではないこと、注意すべきことのリストを作って採択しました。
しかしながら宗教組織などからの批判がやまず、ヘイズは地方レベルでの法的な検閲が強化されることを怖れるようになりました。このため、1929年にアイルランド系カトリックのジャーナリストであるマーティン・クィグリーとイエズス会神父であるダニエル・ロードが明確な決まりの策定に乗り出します。これが後に「モーション・ピクチャー・プロダクション・コード」と呼ばれるようになる決まりです。