11月24日
『作りたい女と食べたい女』(NHK)が始まった。
一話目、「作りたい」女の野本さんが、会社にお手製のお弁当を持っているというだけで男性社員から「いいお母さんになる」と言われたり、「食べたい女」の春日さんも、定職屋に入るも「女性だから」ということで勝手にごはんを小盛りにされてしまうシーンがあった。
些細に見えるかもしれないが、これらのシーンは女性が受けている理不尽なことのほんの二例である。そんなシーンが描かれたあとに、同じマンションのエレベーターで出会ったふたりが、食事をして、なにか歓びをわかちあうところにたどり着くまでが、15分で見事に描かれていた。
気になって原作漫画を読んでみると、もちろん漫画も素晴らしいのだけれど、ドラマの脚本は、ふたりに起こる出来事の順番を少しだけ変えていた。二人で初めてごはんを一緒に食べた後に春日さんの定職屋のくだりが出てくるのだ。
この順番を変え、野本さんにも春日さんにも、別の場所で別の理不尽な思いをしている。その理不尽さ、生きづらさが重なった後に、初めて一緒にごはんを食べる。そのことが、映像作品としてはカタルシスになる。
思い出すのは、昔のヤクザ映画や香港ノワールである。理不尽なことに抑圧された者たちが、ドカーンと爆発して得られるカタルシスにも似たものがあった。『つくたべ』の場合は、ドカーンというものではなく、しみじみとカタルシスが感じられるからこそ、日常ドラマとしていいのだが。
12月2日
この日の『全力!脱力タイムズ』(フジテレビ)は、メインキャスターのアリタ哲平が、来年一月からNetflixのお仕事で三か月間、アメリカに行くことが決まり、その間の代打キャスターオーディションをするという内容だった。
私は、この番組を毎週見ているわけではないので、途中までアリタがアメリカに行く話が本当かと信じてしまったが、信じてしまうようではこの番組の趣旨をわかっていない。この番組は、架空の報道番組の体をしたコント番組なのだから。
書きたいのはそこではない。そのキャスターオーディションを受けにきたのが、モグライダーのともしげだった。彼は、まったく何も聞かされずに、岸博幸、齋藤孝、五箇公一らの本物の識者が演じる解説員の討論をMCとして議論をまわす役目をする。
解説員は「為替介入は賛成か反対か」について論じあい、賛成と反対で議論を白熱させ、議論を戦わせる。もちろん、このくだりも番組の壮大なしかけの一部なのだが、事前に何も知らされていないともしげの反応だけは、リアルなのである。
ヒートアップする議論を前に「(MCとして)仲裁して」というカンペを見たともしげは、「アメリカと日本でどっちが好きみたいな話ですか?」と切り出し、解説員から「ともしげさんはどう思うんですか?」と聞かれると、「楽しく生きていきたい」「仲良くしたほうがいいと思うんですよね。みんなが」「お金の話するのやめません?」と答えたのだった。
番組としてはそれが笑いとなっていたのだが、自分のわからないことで誰かと誰かが議論していることを戦っていると感じ(もちろん、番組は誇張して戦っている雰囲気を出しているのだが)、その内容に沿った解決方法を考えるのではなく、その空気が耐えられないから、とりあえず「楽しくいきましょうよ」「みんな仲良くしましょうよ」と仲裁をしてしまう現場に出くわすことは現実にもあるなと思い起こされて、笑っている場合ではなかった。
勝手なことは言えないけれど、小さい頃からわけもなく「みんな仲良く」と言われてきたことを思い出してしまった。しかし「みんな仲良く」と言ったところで、解決できないことはたくさんある。
12月4日
日曜の昼間に『いまだにファンです!』(テレビ朝日)が放送されていた。この『いまだにファンです!』は、2019年4月に同タイトルで放送が始まり、その後、時間帯の移動などにより、『すじがねファンです!』『ひかくてきファンです!』などと、タイトルを変えて2020年9月まで放送されていた番組で、その一日限りの復活版が放送されていたらしい。
この日のテーマは「80年代最強!チェッカーズVSシブがき隊SP」というもの。実際にチェッカーズから鶴久政治が、シブがき隊から布川敏和が出演し、彼らのファンとして西村知美と田中律子が出演していた。
私もドンピシャの世代なので、当時の熱狂を覚えている。しかし、彼らの活躍した時代は少し離れている。
私で言えば、小学4年生でシブがき隊が出てきて、小学6年生の冬にチェッカーズが出てきた感覚だ。チェッカーズだけ季節まで覚えているのは、それだけ衝撃的だったからだ。正確にはチェッカーズが「ギザギザハートの子守唄」でデビューしたのは小学校5年生の頃なのだが、大ヒットした「涙のリクエスト」がリリースされたのが小学6年生の冬で、そのときに過去に出した「ギザギザハートの子守唄」、サードシングルの「哀しくてジェラシー」が同時にヒットし、ザ・ベストテンで3曲同時にランクインした。
そのときに、芸能界はガラッと変わってしまった。それまでは、トシちゃんやマッチ、そしてシブがき隊などのジャニーズのアイドルが全盛だったのが、チェッカーズと同時期に出てきた吉川晃司によって、アーティストがアイドルに変わってしまった。
このときの感覚を、『いまだにファンです!』に出演していた布川も振り返っていた。本木がまず「敏和、大変なかっこいいグループが出てきた」と気づき、次第に布川と本木がチェッカーズの合宿所にいったりするようにもなったらしく、薬丸は、ふたりがチェッカーズと仲の良いことを注意していたらしい。
シブがき隊はそこまでアーティスト方向にいかなかったが、アイドルはもう古いという感じになり、トシちゃんは洋楽、今考えると初期のHIPHOPなどを取り入れ、キョンキョンはKYON2という名義で、当時DJが使っていた12インチシングルをリリースした。菊池桃子がバンドのラ・ムーとして活躍したのも、すべてチェッカーズが流れを変えたと言っても過言ではない。もちろん、そこには80年代にMTVなどから入ってきた洋楽の影響もあったが。
そのチェッカーズ自身も更に変化し、1986年の『NANA』で藤井兄弟が初めて作詞作曲をし、よりバンドサウンドになったと『いまだにファンです!』でも紹介されていた。今聞くと、ここら辺のフミヤからは、テレンス・トレント・ダービーのようなものを感じると思って、検索してみたら、やっぱりあの頃「日本のテレンス・トレント・ダービー」と言われていたようだ。
この時代はバブル時代でもある。『夜のヒットスタジオ』も大物海外アーティストが続々と来日したり、生中継で出演したりするようになり、歌謡曲を紹介する番組だったものが、六本木の業界人の空気みたいなものを醸し出すような番組に変わっていったのである…(その中心にはとんねるずなどもいた)。この続きというか、前後のことは、いつかまとめたいと思っていることだったが、番組ひとつで、いろんなことを思い出してしまった。