保守的な結末
しかしながら、いくらなんでもこうした主人公が改心も何もせずに最後までいられるわけはありません。主人公の性別がどうだろうが、こんなセクハラ三昧の横暴な行動が許されたまま映画が終わったら観客はイラっとするでしょう。現代の観客ならアリソンが部下に訴えられて全てを失うくらいでないと納得しないかもしれませんが、そこは1930年代の映画で、女性から男性に対するセクハラに対しては甘いところがあり、そもそもセクハラという概念じたいがなかったので、そうはなりません。結局、アリソンはなかなかうまく誘惑することができなかったジムに心から恋をし、結婚して会社をやめて母親になると決めます。
この終わり方はジェンダーの点からすると非常に問題含みです。ここまでこの映画はいろいろと既存の性役割を逆転してパロディ化するようなことをしてきましたが、結局は女性には企業で働くことは向いておらず、仕事をやめて結婚し、家庭に入るのが正しいのだという価値観を強化してしまっています。あれだけ仕事に自信を持っていたアリソンが急にやめると言い出すのは、展開としてはわりと不自然です。おそらく主人公が男性であればこういう展開にはならず、改心して家庭人らしく振る舞うようになって終わりで、仕事はやめないでしょう。
このオチは若干、不気味でもあります。アリソンはわざとジムに頼ってみせるという演技で相手の気を惹き、自分を愛させることに成功しましたが、その手練手管については全く反省しないまま結婚生活に入るわけです。アリソンがジムを引っかけるのに使った技巧は、それ以前にアリソンが部下たちを誘惑するのに使った技巧と実際はそんなに変わってはおらず、欺瞞と計算に基づいています。一見、幸せな結婚生活の始まりのように見えるこのオチですが、結局アリソンは欲しいものを手に入れるためなら何でもする野心的な性格を保ったままです。アリソンが妻となって家庭に入るのは「本来の自分に戻る」というような文脈ではなく、欲しいもの、野心の対象が変わったからです。
その後のアメリカ映画
現在の感覚だと、面白いところはあってもだいぶ奇妙で昔風なオチがつく『フィメール』ですが、その後に作られる女性と仕事に関するさまざまな映画を予見する作品ではありました。
職場で有能な女性が急に夫のために仕事をやめると言い出す話はジョージ・スティーヴンズ監督、キャサリン・ヘプバーンとスペンサー・トレイシー主演の『女性No. 1』(1942)でも展開されていますが、こちらの作品ではやっぱりそういうふうに働いていた女性が急に家庭に入るというのは無理だろう……というバランス感覚が示されています。
女性上司が男性部下にセクハラをする話はバリー・レヴィンソン監督が60年以上後に撮ったデミ・ムーアとマイケル・ダグラス主演の『ディスクロージャー』(1994)が有名です。この作品は女性が男性の上に立って働くことへの恐怖心が前面に出ている作品で、パロディ的な要素があった『フィメール』よりもむしろミソジニーがあからさまになっているとも言えます。
手段を選ばず仕事をし、恋愛はしないが性欲はあるやり手の女性を描いた映画としてはジョン・マッデン監督、ジェシカ・チャステイン主演の『女神の見えざる手』(2016)がありますが、この作品ではヒロインはセクハラはせず、男性のセックスワーカーを雇っています。こうした映画をまとめて見てみると、ハリウッドが仕事とジェンダーをどう描いてきたかの変遷がなんとなくわかってくるかもしれません。
参考文献
Mick Lasalle, Complicated Women: Sex and Power in Pre-Code Hollywood, St. Martins Press, 2000.
Scott O’Brien, Ruth Chatterton, Actress, Aviator, Author, BearManor Media, 2013.
Alan K. Rode, Michael Curtiz: A Life in Film, University Press of Kentucky, 2017.
Ana Salzberg, Produced by Irving Thalberg: Theory of Studio-Era Filmmaking, Edinburgh University Press, 2020.
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