「好き」だけでは語れないアイドルの魅力と多様さ『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』(青弓社)

文=エミリー
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 多くのアイドルファンは、「推し(応援しているメンバーやグループ)」のことを、きっと日々穴の開くほどよく見つめている。

 ライブや音楽番組でのパフォーマンスの一挙手一投足や表情はもちろん、本人の魅力やメンバー同士の仲の良さが垣間見える、ライブ中やトーク中の些細な言動や目配せも決して見逃さない。何を纏い、どんなヘアスタイルやメイクをし、どんな考えやパーソナリティを持っているのかといったことを、SNSの投稿やライブ配信、ビハインドの映像の隅々から、必死で読みとり受け取ろうとする。

 けれども、「好き」という感情に基づいて何かや誰かを「見る」とき、しばしばそのまなざしは近視眼的なものになってしまいがちだ。

 「よく見ている」つもりでいるアイドルについて、自分にはいったい何が見えていて何が見えていないのか。『アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/<推し>』(香月孝史・上岡磨奈・中村香住編著、青弓社)という本は、自分の「推し」や「推し」をとりまく環境、ファンである自分自身の言動や立ち位置、他のファンの存在について、視野を広げたり思考を深めたりする手がかりを与えてくれる。

一緒に葛藤しながら考えていく

 この本ではアイドルという存在やアイドルを応援することの意義や魅力や可能性について語られつつも、それ以上に「アイドルをまなざすなかで感じる葛藤」について、8人の書き手たちがさまざまな視点から悩み、考え、言葉にしたことが綴られている。

 フェミニズムとアイドルの繋がりについて書かれている章もあれば、乃木坂46やハロー!プロジェクト、二丁目の魁カミングアウトといった具体的なアイドルグループの存在や楽曲、実践から「アイドルを推す」ことがもたらす可能性や問題を読み解こうとする章、「ガールクラッシュ」コンセプトのK-POPアイドルの内実を韓国の社会的な背景から捉えようとする章など、アイドルについて多様な観点から考察されている。けれども、異なる書き手の異なる視点やアプローチの中に交差する部分も多く、広大すぎて一人では見渡すことの難しいアイドルをめぐる状況を、複層的に知ることができるようになっている。

 そして、それぞれの書き手の個人的な「推し」や「推す」ことへの想いや葛藤をも含んだ文章を読み進めていくうちに、気づけばいつのまにか、読み手である自分自身の経験や想いが喚起され、「葛藤しながら考えてみ」るのは、「自分」になっているのだ。

 本当に多様な読み方ができるものの、今回は「クィア」という視点から、私が『アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/<推し>』を読むことを通して浮かび上がってきた、アイドルを「推す」なかでの自身の経験や思考や葛藤と、希望について書いてみたいと思う。

異性愛主義によって無視されるファン

 この本のなかでは、アイドル文化の中心にある「異性愛主義的な価値観」の問題点について、ほとんどすべての章で何らかの形で触れられている。

 たとえば、中村香住さんによる序章「きっかけとしてのフェミニズム」では、アイドル文化では“当たり前”とされてきた「恋愛禁止」という暗黙のルールについて、こんなふうに書かれている。

「『恋愛禁止』自体が、労働者個人のプライベートに立ち入って人権を侵害するという意味で抑圧的なものだが、さらにその『恋愛禁止』の『恋愛』は異性愛だけを指していて、異性愛以外の恋愛(同性愛や両性愛)が想定されていないという意味でも抑圧的なものだといえるということだ。こうした異性愛主義は、『恋愛禁止』において二重の抑圧を生み出すだけでなく、例えば同性のファンという存在を特殊なものと認識してしまうことにもつながる。」(p.22)

 幼少期にSPEEDやモーニング娘。を好きになったのをはじめとして、それから30代手前まで同性(女性)の芸能人やアイドル、アーティストばかりを好きになり、その時々の「推し」をかなり熱心に追いかけてきた私は、まさに「特殊だ」と周囲から不思議がられる経験をこれまで何度もしてきた。

 そして、2年ほど前に(それまで自分の恋愛・性的指向を表す言葉や概念が存在することすら知らなかったのだが)自分がおそらく「アセクシュアル(他者に対して性的惹かれや欲望を抱かない)」で「クワロマンティック(自分が他者に抱く好意が恋愛感情か否か判断できない/しない)」であると自覚してから、世間一般の「好きになるアイドルや芸能人は異性である」、「ファンがアイドルに向けるまなざしは疑似恋愛的なものである」ということを“当たり前”とする、アイドル文化における異性愛主義的な価値観の強さにますます違和感や疎外感を抱くようになったことを、改めて思い起こすことになった。

 恋愛的な内容が歌われる歌詞の多さ、恋愛発覚によるアイドルの脱退や引退、同性のアイドルも異性のアイドルも恋愛感情ではない気持ちで隔てなく好きになり応援していても、前者は不思議に思われ、後者は簡単に異性愛的な文脈に回収されてしまうこと——これまでファンとしてアイドルを追いかけるなかで心に積もっていった、モヤモヤとした気持ちや経験の数々を思い出し、「自分のようなファンは、これまで主流のアイドル文化からずっといないことにされ、無視され、疎外されてきたんだな」ということを、はっきりと理解し自覚することになった。

アンジュルムに見るクィアな関係性

 その一方で、「アイドル」という存在やアイドルをとりまく関係性のあり方が、クィアな恋愛・性的指向のあり方に寄り添い、希望を感じさせてくれる部分も確実にあることにもまた、気づかされる。

 第2章「『推す』ことの倫理を考えるために」で筒井晴香さんは、「『推す』ことは、交際や結婚や出産を志向しない愛に大きな価値を置き、情熱を傾けるという点で、恋愛/結婚/家族を人間関係のヒエラルキーの頂点に置くような、家父長制的な人間関係観に揺さぶりをかけるものになりうる」(p.60)と示す。

 これはまさに、「クワロマンティック(自分が他者に抱く好意が恋愛感情か否か判断できない/しない)」を自認する人が、恋愛とも友情とも家族とも言えない、既存の関係性の枠組みや言葉には当てはめられないものの大切に思う人や存在がいる、という感覚や状況とも、通ずる部分があるように思う。

 また、ここでは「『推す』人と『推される』人の関係」や「『推し』を介した『推す』人同士の絆」について言及されているのだが、私が「推し」ているハロー!プロジェクトのアンジュルムというアイドルグループの姿やメンバーたちの言動を見ていると、アイドルグループのメンバー同士の関係性のあり方もまた、クィアな人にとっての一つの光や理想になりうるようにも見受けられる。

「なんだろう。大家族って感じ。なんかもう、言葉に表すのは難しい存在だけど、友達とは全然違うし、(…)大事な存在だってことを一番上にすると、家族って言葉になるんだと思う。毎日一緒にいるから話が合うのはメンバーだし。嫌なこともいいことも、一緒に乗り越えてきたからこそ、何にも誰にも裂けない仲が、絆があると思ってて。だからもし誰かが卒業して、少しずつ形が変わっていっても、ホントに仕事でつらいことがあっても、メンバーに出会えたことだけはよかったなって思えるから。ていう感じで、大事な存在です(笑)。」(アンジュルム・蒼井優・菊池亜希子「あやちょの部屋」『アンジュルムック』集英社 2019 p.79)

 『アンジュルムック』という本の対談企画で、リーダー(当時)の和田彩花さんがメンバー(当時)の勝田里奈さんに「りなぷ〜にとってアンジュルムとは?」と質問したときの勝田さんの応答の言葉からは、グループのメンバーはただの仕事仲間や友達や恋人でもなければ一般的な意味での家族とも違う、既存の言葉で表すのが難しい特別で大切な存在や関係性であることが伝わってくる。

 これは、中村香住さんが「クワロマンティック」について書いた論考(「クワロマンティック宣言 『恋愛的魅力』は意味をなさない!」『現代思想』2021年9月号 特集=<恋愛>の現在 青土社)に登場する、「重要な他者」という概念とも近しいのかもしれない。「クワロマンティック」やクィアの当事者がみな同じように捉えるわけではないと思うが、少なくとも私は、アイドルたちの互いを特別に大切に想い合う親密な関係性のあり方が、その存在に惹きつけられてきた理由の一つでもあり、確実にそこから光や希望をもらってきたといえる。

多様なアイドル、多様なファン

 これまで主流のアイドル文化からずっと疎外されてきたことや、反対に希望を感じてきたことがあることを改めて自覚したところで、それらをただ自分の心のなかや近しい感覚を共有する仲間たちとのあいだに留めているだけではなく、「私たちのようなファンの存在が、いつまでもずっといないことにされたままなのはおかしくないですか?」と、声を上げていいのだと思わせてくれたのが、上岡磨奈さんによる第6章「クィアとアイドル試論——二丁目の魁カミングアウトから紡ぎ出される両義性」だった。

 ここでは、「二丁目の魁カミングアウト」というゲイアイドルグループとそのメンバーの存在やあり方を紐解くことを通して、異性愛主義や男女二元論を前提とするアイドル文化全体が、アイドル自身やファンのセクシュアリティやジェンダーアイデンティティに無関心・無頓着であることの問題点が指摘されている。

「相手のアイデンティティを問わず、ただ素直に好きであるという思いもあるが、それは『どっちでもいい』『性別は関係ない』ということではない。相手にとっては『どっちでも』よくはなく、『関係ない』ことではないからだ。好きだからこそ、相手にとって大事なことは大事にしたい。またその人のアイデンティティは、流動性も含め、その人自身に紐づくものであり、その人を形作るものである。」(p.146-147)

「(…)パフォーマーのジェンダーアイデンティティやセクシュアルオリエンテーションに無自覚でいることや、アイドルに対するファンの思慕を何か典型的なタイプに当てはめることは、それぞれの心身への負担にもなる可能性を考えたい。それは送り手の問題でもあり、受け手の問題でもあり、アイドルに関わる一人ひとりの関心と想像力の問題でもある。」(p.148)

 これらは主にファンの側からアイドルをまなざすときのことについて書かれているのだが、アイドルのセクシュアリティやジェンダーアイデンティティが「どっちでも」よくはなく、勝手に決めつけられたりないがしろにされたりすることなく、大切にされるべきものであるのと同じように、ファンの側の性やまなざしの多様性も軽んじられ、ないことにされていいものではないのだと読むこともできると感じ、勇気づけられた。

アイドルについて一緒に葛藤しながら考え、語りたい

 昨年11月末に発売された、鈴木みのりさん・和田彩花さん特集編集の雑誌『エトセトラ VOL.8 特集:アイドル、労働、リップ』の読者アンケート企画(「アイドルの未来のためのアンケート」)でも、回答者が自身の性別や性的指向について自由に回答した結果が小さな字でびっしりと並べられたページ(p.67)に、アイドルファンのジェンダーアイデンティティやセクシュアリティの多様性がはっきりと可視化されていた。私はそのことに感動しとても勇気づけられたのだが、こうして改めて可視化されたからには、アイドルファンの性やまなざしの多様なあり方こそが“当たり前”と受け止められ、考慮されるようになってほしいと、ますます願わずにはいられなくなる。

 それ以外にも、男性→女性に比べて不可視化されやすい、女性ファンからの男性アイドルに対する性的消費問題について書かれた第5章の「キミを見つめる私の性的視線が性的消費だとして」では、演者が性的な表現をすることも、ファンが性的な欲望を抱いたり、性的なまなざしを向けたりすること自体も罪ではないものの、それらが演者に対する強制や暴力に容易に転じてしまいうる危うさがあることへの罪悪感や葛藤が丁寧に言葉にされていて、考えさせられることが多くあった。

 アセクシュアルである私が、ここ1-2年でK-POPの男性アイドルのファンダムに初めて足を踏み入れてみたところ、異性愛的・性愛的なまなざしでアイドルを見るファン/それを意識した(上半身裸になったり、腰を振ったり回したりするようなセクシュアルな振り付けのダンスなどの)パフォーマンスをするアイドル、という状況を目の当たりにして、衝撃を受けたり違和感を覚えたりする瞬間が、正直多々ある。

 近しいセクシュアリティをもつアイドルファンの友人たちとは、しばしば「ライブで突然上半身裸になられたりすると、男性性を誇示されているみたいで暴力的に感じてちょっと怖いよね」とか「必ずしも肌を露出する=セクシーなわけじゃないし、もっと多様なセクシーさの表現や魅力があるはずなのに、画一的すぎるところがあるよね」と話したりもする。

 今はSNS上でその瞬間が切り取られた写真や映像がファンたちのコメントとともに拡散され、性的な欲望やそれを消費するさまがリアルに可視化されるようになっているからこそ、「それはアイドルの心身をすり減らしていることにならないのか?」「アイドル自身が主体的にやりたいと思ってやっているならいいけれど、実は本人の意思よりも“ファンが喜ぶから”という理由が優先されてしまっているのではないか?」「筋肉を見せるような”男らしさ担当“のような役割は本当に必要か?」といった疑問や視点も浮かんでくる。

 一方で、「自分が苦手である(好きではない/抵抗を覚える)」ことと、「倫理的に正しくない」ことや「暴力的である」ことは決してイコールではないため、それらを安易に混同することなく、丁寧に慎重に切り分けて考えていく必要があると、改めて気づくことにもなった。

 異性愛主義・男女二元論が当たり前ではなく、アイドル側にもファン側にも多様なジェンダーアイデンティティやセクシュアリティをもつ人がいるということこそが“当たり前”になれば、「そもそもそれは本当に必要なのか?」「それは倫理的に正しいのか?」という問い直しが必要になってくるものが、アイドル文化のなかにはたくさんあることが見えてくる。多様であるからこそ、何が正解で何が間違っているかを簡単に決められないことも多いはずだが、互いを疎外しない表現の内容やあり方や関係性が、もっとオープンで活発な議論や細やかな想像力を経て築かれていくことを期待したいし、そこに一歩ずつ近づくための手がかりや希望が、この『アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/<推し>』という本には詰まっているように思う。

 この文章はクィアとしての視点から見えるものにフォーカスして書いたため、少し内容が偏り気味になってしまったかもしれない。けれども、いろいろな属性や感覚や経験や「推し」をもつアイドルファンの人たちが、それぞれにこの本を自分なりの視点で読み、考え、誰かと語ることは、きっとすごく意味のあることだ。私自身もこれからさらに学び、考え、誰かと語り続けていきたいし、私なりの視点と言葉で書いたこの文章が、また別の誰かの思考や語りへと新たに開かれてゆくことを、願いたいと思う。

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