ゲーム『The Last Of Us Part2』には個人的な思い出がある。2018年の6月12日、ストレスが重なって私は一睡もできなかった。心臓が痛くて胃痛がして、とにかく耐えがたかった。なんであんなに辛かったのかはもう思い出せないけど、世界と繋がれないという気持ちでいっぱいだったのは覚えている。
思い出せないとか言いながら、6月12日と妙に日付だけが明確なのは、その日が『The Last Of Us Part2』のトレイラーが公開された日だったからだ。
朝を迎えてボーッとしながらゲームニュースサイトを見て、私は何気なくそのトレイラーを再生してみた。するとその映像は主人公のエリーとディーナの女性同士のキスシーンから始まって、なんだかそれにとっても救済されてしまった。
自分が世界から切り離されていたような気分がその時、明確に繋がったように感じたのだ。私はちゃんと世界の一部なんだ、と私が感じた喜びを今でも記憶している。
自分のセクシュアリティやそれに基づく生活がそこにはハッキリと描かれていた。冒頭のキスシーンは明らかに、それを描くという宣言だった。
知らない人からすると私の喜びは少し不思議かもしれない。当時すでにレズビアンの物語を描いたインディーのゲームは少しずつ増えていたし、大企業による作品でも選択肢としてのレズビアンのストーリーラインは存在していた。
ただそれでも『The Last Of Us』シリーズが、力強くレズビアンの物語を描くと宣言することは、大きな意味を持っていた。「ラスアス」とも通称されるこのシリーズは、一大ゲームプラットフォームであるPlayStationのフラグシップタイトルで、ゲーマーからの注目も高い。
そしてまた、このシリーズは一本道の物語でじっくりと主人公たちの世界と人格を描く、極めて大規模な作品で知られている。従来の大作ゲームにありがちな選択肢の一つとして同性との恋愛が出来る、という作品とは一線を画すものになることも予想できた。
シリーズ第一作目である『The Last Of Us』はゾンビ禍(正確に言うと、菌類の胞子に感染した人々で感染者と呼ばれ、ゾンビではない。とはいえゾンビそのものなので、ゾンビと呼ぶ)が広がりきったポストアポカリプスのアメリカを舞台に、ジョエルとエリーの擬似父娘関係を描いていく。
エリーはゾンビ菌に抗体を持っていて、世界を救う助けになるかもしれない。ジョエルは依頼を受けて、エリーを研究施設のある土地まで護衛する旅に出る。擬似父娘でゾンビと聞くとマッチョな感じがして怯えるし、実際それは否めないのだけど、続編はむしろその関係を問う作りになっている。
エリーのレズビアンロマンスが描かれる『Left Behind -残されたもの-』
エリーのレズビアンとしての側面が描かれるのは、続編の『The Last Of Us Part2』が初めてではない。エリーの幼少期を扱う第一作目のDLC『Left Behind -残されたもの-』ではエリーと親友のライリーのレズビアンラブストーリーが描かれる。このDLCでは本編以上にゆっくりしたペースで進行し、エリーの恋と友情が丁寧に語られる(もっとも時々ゾンビや人間に襲われるのだけど……)。
『Left Behind -残されたもの-』ではエリーは自室を突然訪れたライリーと共に、廃墟になったショッピングモールに潜り込むことになる。そこではショッピングモール内の色々なオブジェクトに二人が反応して多彩な会話を繰り広げたり水鉄砲で遊んだりといった、二人の関係に入り込むインタラクションがたくさん用意されている。
ゲームが持つプレイヤーの操作による没入感がシナリオとうまく組み合わさっていて、エリーの欲望や願望と自分のそれが一致する感じで、とても好きなDLCだった。後でまた触れるけど『The Last Of Us』はドラマ化されていて、ドラマではこのエピソードもきちんと映像化されていた。
ただこのDLCの最後は悲劇に終わってしまう。あくまでもメインはエリーとジョエルの物語で、エリーの過去のエピソードも結局はジョエルとの物語に回収される。意地悪な言い方をすれば、エリーの主体性は無言のジョエルの中に吸い込まれてしまうのだ。
しかし、続編である『The Last Of Us Part2』ではエリーをはじめとする人々のクィアな側面が深く語られ、そしてジョエルとエリーの関係が抱える課題が残酷なまでに問われていくことになる。
今回はそんな「ラスアス」(ファンによる通称)をゲーム第二作目『The Last Of Us Part2』を手がかりに考えていく。
『The Last Of Us』のラストが描く暗い予感
『The Last of Us Part2』の物語は前作の終盤での出来事をめぐって展開していく。そのためにまずは『The Last Of Us Part1』のあらすじを手短にまとめる。
『Tha Last Of Us』では、長い旅の末、ジョエルとエリーは研究施設のあるソルトレイクシティに辿り着く。が、そこで残酷な事実が明らかになる。ゾンビ菌の抗体を取り出すとエリーは死んでしまうのだという(そんなことある!?と思った)。
エリーはそのことを知らないが、世界を救うためには自分の命を差し出してもいいと考えていた。しかし真相を知ったジョエルは、エリーが麻酔で眠らされている最中に研究施設の人間を殺戮する。
目覚めたエリーにジョエルは、研究は中止になったと嘘をつく。エリーはジョエルにそれが本当であると誓うことを求める。
この出来事はとても暗い。エリーとジョエルは旅を通して信頼関係を築いてきたけど、最後の最後にエリーはジョエルから阻害される。ジョエルとしてプレイしてきたプレイヤーは、この選択に何も関与できない。ジョエルのこともエリーのことも理解したのに、二人の先に暗い予感だけが横たわっているのが見える。
『The Last Of Us Part2』のキャラクターたちの葛藤と差別とクィア性
続編である『The Last of Us Part2』は、二人のその後を逃げることなく描いていく。
それから数年間、エリーはジョエルと共にジャクソンという街で暮らしていた。街でエリーは、時に衝突に巻き込まれることもあったものの、同年代の女性ディーナと恋仲になりつつあったりと穏やかな暮らしを送っている。
けれど、物語の序盤でジョエルは殺されてしまう。犯人は、ジョエルが前作のラストで殺戮した人たちの仲間だった。ジョエルが殺される場に立ち会いながらも、ただ見ているしかできなかったエリーはその後、復讐にのめり込んでいく。
本作の物語はこれだけではない。ジョエルに復讐を果たしエリーに追われる女性、アビーもまた主人公なのだ。つまりプレイヤーはエリーとアビーという二人の、追い追われる主人公たちをプレイしていくことで『The Last of Us Part2』というゲームを体験していくことになる。復讐するものと、されるもの。二人を同時にプレイするその旅は当然、過酷なものになっていく。
『The Last of Us Part2』に登場するキャラクターたちには、生まれや育った環境、つまり自分の意志でコントロールできなかったものと、自分の意志の間の葛藤に直面する人が少なくない。この葛藤こそが、本作の過酷なドラマを編み上げていく。
胞子によってゾンビになる危険がある上に人間同士が争っているという世界の中で生きること自体が、その象徴にも思える。
環境と自分の生をめぐる物語は、普遍的なものであるのかもしれない。しかし、私はじっくり描かれるこの葛藤こそ本作を、クィアでありフェミニズムであり反差別的なものにしているのだと思う。それは普遍には回収されない個別的な物語であり、それぞれの立場を問う物語でもある。本作には色々なテーマがあるけど、今回はこの葛藤に絞って考えていきたい。
環境とアイデンティティの葛藤
レブはそんな本作のテーマを象徴するようなキャラクターだ。
トランス男性のレブはセラファイトという宗教組織が支配する島で生きてた。けれどセラファイトではレブの男性という自認は否定され、掟に従って結婚を強要される。
レブは姉のヤーラと共に島から逃げ出すが、本土の海岸ではWLFという組織とセラファイトの緊張が高まっていた。そのために二人は厳しい立場に追いやられる。
一方でレブは宗教の価値観を疑いきっているわけではなく、その中で男性として承認されることを望んでもいた。レブは一度島を脱出したにもかかわらず、母に会うために島に戻ろうとさえする。だが、コミュニティーはレブのアイデンティティを許さない。
差別のある社会において、特定のアイデンティティーはマイノリティーとなり、差別を受ける。その時に差別を受ける特に若く、コミュニティーと密接な関連を持っている当事者は、どんなことができるのだろうか。そのコミュニティーと断絶し、自身のアイデンティティを抱きしめていくためには、多くのつらい段階が必要となる。
レブは自身の置かれた環境と、自身のアイデンティティの間の調整をなんとか果たそうとしていた。
最後にはレブの努力は手ひどく裏切られ、多くの犠牲を伴って終わる。それでも彼は諦めずに人と人の間に許しがあることを信じ、求めていて、それはエリーとアビーの物語を大きく動かしていく。
私にとってそんなレブはこのゲームの中でも特に心に残るキャラクターだった。
アライの戦い
レブと行動を共にすることになるアビーもまた、自身の生を生きる過程で、周囲の環境との間に齟齬が生まれていく。
アビーは父を殺したジョエルへの復讐を果たしたけど、そのこと自体がアビーのトラウマとなっていく。その復讐は誰の望みだったんだろうか?
そんな時にアビーはレブとヤーラに出会い、二人を助けることとなる。けれど、レブとヤーラが所属していたセラファイトという組織は、アビーが所属するWLFとの全面対決に突入しようとしていた。
緊張が高まる中、アビーはレブたちを助けるためにWLFに背いていくことになる。ある意味では、アビーはレブたちのアライなのかもしれない。レブはセラファイトという自身が所属していたコミュニティから追い出されたが、同時にWLFというコミュニティからはセラファイトに所属する敵として差別される。
二重の差別に合うレブを助けることで、アビーも組織の中にある排除性を見つめることになり、そして戦うことになっていく。自身に向けられるものではない差別と向き合った結果、アビーはこれまでとは違う戦いの中に入り込んでいく。
筋骨隆々としていて、ゾンビを素手で倒す事も出来るアビーは素直にカッコいい。でも私がゲームをプレイしていく中でアビーを好きになったのは、それだけではなくて、レブを命がけで助けていく彼女がレブのアイデンティティをずっと信じていたからだ。
父によって奪われたものと、父と決別できなかったこと
そしてもちろん、主人公のエリーも同じように深い葛藤の中にいる。エリーは前作のラストで、自身の意思と関係なく救われていた。そのことについて嘘を言ったことが、ジョエルの裏切りであったのは、前作の時点で示されていた。
エリーとジョエルはその後、どうなったのか。あの件について話す機会があったのだろうか。実のところ本作ではジョエルとエリーが衝突したことが冒頭で示唆されるものの、成長したエリーとジョエルの関係はラストの方まで深くは描かれない。
ジョエルを殺され復讐の旅に出たエリーにとって、ジョエルとのー衝突は、つらくて思い出すことができないものだったのかもしれないと私は思う。エリーは旅の最中、ジョエルから受け継いだギターを何度も弾くが、エリーが思い出すジョエルとの記憶は、エリーがジョエルと衝突するよりもっと昔のものだ。その代わりのように、エリーは復讐にのめり込んでいく。
もっとも、この旅はそれほど長いものではなく、たった三日間の物語でもある。旅にはディーナも参加していて、序盤は二人のやりとりにほのぼのする場面も見れて嬉しかった。
思い出せない記憶と受容
成長したジョエルとエリーのやりとりが本格的に描かれるのは、本編の後半に入ってからだ。エリーはアビーに殺されかけるが、レブがそれを止め、その後旅から帰ったエリーは恋人のディーナと共にジャクソンの近くの農園に落ち着く。
エリーはディーナとその子供(ディーナの前の恋人との間の子供)の3人で穏やかに暮らすものの、ジョエルを殺されたトラウマから抜け出せない。
そんな中、エリーはジョエルとのことを思い出す。
冒頭で紹介したPVにもあった、祭りでのエリーとディーナとのキスシーンのあと、エリーは街の住人のセスから差別的な侮辱を受ける。エリーはセスから発せられた「レズ」という言葉に対して反論しようとするけど、セスは横から入りエリーを守ろうとするジョエルに小突かれる。
そしてエリーはジョエルに怒る。「助けてくれなんて言ってない」と。
とても短いけれど、象徴的な場面だ。エリーは自分が受けた差別に自分で反論しようとする。しかし、擬似的な親であるジョエルがその横から現れる。 エリーは守られるが、エリーの自主性は損なわれる。それは支配の形式でもあり、エリーにとってジョエルは、味方でありながら味方でない。
ジョエルとの間のこの葛藤は前作のラストの小さな繰り返しでもある。
エリーは自分の置かれた環境とやり合う機会をジョエルに奪われ、そしてジョエルに何かを告げる機会を失ってしまった。ジョエルと決別する機会さえなくなった。
『The Last of Us Part2』の中でエリーは激しい暴力を振るい続け人を殺し続ける。その暴力は前作でのジョエルの暴力を思わせる。それは時に極めて有害でコントロール不能になりつつある暴力として描かれる。旅の合間に弾き続けるギターも、エリーがジョエルに同一化していることを暗示するかのようだ。
プレイヤーに何ができるのかを問うラスト
エリーとジョエルの更に深い会話は、ゲームの本当にラスト、エンドロールの直前に挿入される。
エリーはジョエルを失った傷と復讐の旅での傷を癒せず苦しみ、平穏な暮らしを捨ててアビーを殺すためにもう一度旅に出ようとする。ディーナはそんなエリーを止めるが、エリーはディーナを拒む。
エリーは旅先でアビーを見つけ、アビーを追い詰めるけどレブと共にいたアビーを殺せず、ディーナといた家に帰る。しかしそこにはディーナも子供の姿もない。エリーは多くを失った。
その時に、やっとエリーはジョエルとあの病院でのことを語り合った夜を思い出す。様々な点から、エリーはジョエルの語ったことが嘘だと気づいていた。セスとの出来事があったあと、エリーはジョエルにそのことをぶちまける。ジョエルを責めながら、最後にエリーは言う「許したいとは思っている」と。
プレイヤーは激しい戦闘や苦しい復讐を乗り越えてここに辿り着く。同時にそれはエリーにとってもそうだったのだろう。より深いトラウマの中に入って、多くを傷つけながらやっと考えられる出来事。個々のプレイヤーにとってもそうしたものはあると思う。少なくとも私にはあったし、だからこそゲームをプレイしているのかもしれない。
『The Last of Us Part2』は暴力が蔓延した世界で、自身の望みと周りの環境との間で葛藤し苦闘する人々を描いていく。それはアイデンティティと差別をめぐる闘争でもあり、また同時に父や暴力の支配にどう抗うことが出来るのかを問うものでもある。そこに明白な答えはなく、プレイしている間もプレイした後もずっと問いが続く。
ゲームのラストでエリーはギターを置いて誰もいない家を出る。この時、プレイヤーの視点は家の中に固定されエリーにギターと共に置き去りにされていく。
エリーは、あの復讐の旅とジョエルの思い出が入ったギターを置いて、外へ旅立つことができた。そうであるなら、プレイヤーは何を置けばいいのだろうか。ゲームのコントローラーを置くことだろうか。もちろん単純な答えはない。でも、一度プレイしたからには自分自身はどうするかを考え続けざるをえなくなるのがこの作品だと思う。
最後の二人のその先へ
ただゲームには疑問もなくはない。たとえばエリーの手のことだ。エリーはアビーとの最後の戦いで指を失いギターを弾けなくなる。
ここでは障がいがあまりにも象徴的に描かれすぎていて、ちょっと立ち止まって欲しくなってしまう。
象徴的すぎるというのは他の部分にもある。作中で大きな役割を果たす宗教団体セラファイトのあり方もそうだと思う。内実はほとんど描かれず、外部からの視点が全てになっている。
さらに言えば作中での差別の描写の多くはセラファイトを巡る事象に寄ってしまっている。差別を巡る物語が展開するだけに、もう一歩踏み込んだ描写があっても良かった。
廃墟になった書店に掲げられたレインボーフラッグについてエリーとディーナが語り合う場面があるけど、本作でのエリーのアイデンティティについての話はあまり深堀りはされない。復讐を目指すエリーに自分のことを考える余裕がないのはわかるけど、この辺りをもっと語ってほしかった気持ちもある。
換言するなら私の疑問というのは『The Last of Us Part2』の強い寓話性への疑問でもある。ポストアポカリプスな世界を舞台に、本作は実に多様なそして複雑なテーマを語っていく。それは架空の世界を作ることで成し遂げられたことでもあるけど、同時に現実の問題をある程度捨てることで成り立ってもいる。
だからこそ、ギリギリで現実との架橋となっているレブが重要だと私は思う。彼とアビーの旅は、もう一つのエリーとジョエルの旅であり、それへの自己批評でもあった。世界に二人だけになることはなく、関わり合う他者は常に存在していて社会はあり差別も存在する。
前述の通り多くを描き切れたとは言えないけど、それでも『The Last of Us Part2』は差別やアイデンティティの問題をも考えようとしたゲームであると私は思う。そしてこのゲームの差別に関わる側面を語っていくこと、そんな語れる場を少しずつ増やすこともこの現実世界では大事なことだとも、私は思う。
これからプレイする人向けのポイント解説
・『The Last of Us』はPS3/PS4でプレイ可能。リメイク版『The Last of Us Part1』はPS5とPCでプレイ可能。『The Last of Us Part2』はPS4とPS5でプレイ可能。
・オプションからはテキストの読み上げをはじめ、視覚強調や聴覚サポートなど様々なアクセシビリティ機能にアクセスできる。
・難易度調整もかなり豊富なので、ゲーム初心者でも比較的プレイしやすい作品。
・『The Last of Us Part2』にはインディ・ゲームの『Hotline Miami』が引用されている場面がある。『Hotline Miami』はグロテスクな暴力を題材にした作品。インディ・ゲームには『Undertale』など暴力に向き合う作品も多い。ラスアスもそうしたインディ・ゲームの影響を受けている。大作ゲームを遊ぶときはそうしたインディ・ゲームとの関連も追ってみるとよい作品にであえるはず。
・第一作目の『The Last of Us』はHBOによって『THE LAST OF US』としてドラマ化されている。記事でも触れた『Left Behind -残されたもの-』も第7話で映像化されている。また原作では匂わせる程度だったゲイのラブストーリーも、第3話で見事に描かれておりこちらもおすすめ。