中年の男性が主人公のゲームは多い。前回も触れた『Last Of Us Part1』や超大作盗掘ゲームの最終作『アンチャーテッド4』、インディーゲームブームの先駆けとなった『Dear Esther』などその例には枚挙にいとまがない。
そうした作品では、主人公が過去のキャリアを振り返りながら、自分の罪を精算しようとしたり、あるいは新しい未来へ向けた変化が語られる。
これらは、いわゆるミドルエイジクライシスと呼ばれる現象を取り扱うゲームだ。ただ、実際にはミドルエイジクライシスで描かれるような、キャリアや環境の変化が、ある特定の年齢に結びついているというのは単なるでっち上げに過ぎないという批判も多い。
またミドルエイジクライシスとは、あるライフイベントが定まった時期に起きるという前提をもとにしているものでもある。こうした前提も思い込みによるところが大きいものだ。
それに先ほど「中年の男性」と述べたように、このミドルエイジという概念は男性性と結びつけられやすくもある。今の社会では性差によってライフイベントが異なる形で振り分けられる(あるいはそうすることで性差という概念を強調している)。評論家として知られるスーザン・ソンダグが1972年に提唱した年齢の二重規範(Double Standard of Aging)という概念では女性の加齢が男性よりも厳しく見られ、男性において加齢はマスキュリニティの向上になる場合もある一方女性に対してはフェミニニティの低下と見做される加齢の不平等さが語られる。
私自身、歳を重ねていく中で、歳を重ねることの圧を色々感じるようになってきた。本当に幸運にもひどいことは言われないけど、標準で健康な身体を持った人々に社会が想定するライフイベントのあり方を見ると自分と比較してしまう。それに、自分が歳をとることで生まれる権力みたいなものも持て余して考え込んでしまう(とはいえ私は概ね加齢を肯定的に受けとめているし今の自分が好きではある)。
今回紹介するゲーム『Lake』は、そんな中年に差し掛かった女性が自分や同世代の女性たちと共に人生を見つめ直していくゲームだ。
舞台は1986年。IT系企業で働いてたメレディスは、ひょんなことから二週間の休みを取り、久々に地元のプロヴィデンスオークに帰って郵便配達のバイトを始める。町には様々な出会いや再会が待ち受けていて、人々と交流する中でメレディスは人生のこれまでとこれからを考えていく。
町で描かれるたくさんの人生との出会い
主人公のメレディス・ワイスは、いい感じの高層ビルに住んでるIT企業の従業員だ。メレディスは22年前に町を出てマサチューセッツ工科大学に入り、40代になった現在はIT企業でAddit87という何かのOSかソフトを開発しているようで、なんとなくエリートという感じがする。
そんなメレディスがひょんなことから休暇をとって父親の代役として郵便配達員の仕事をするために22年ぶりに地元の町を訪れるところからゲームはスタートする。
『Lake』は郵便配達をしながら地元の人々と交流したりしていくゲームだ。プレイヤーは、トラックを運転して指定された場所に行って荷物や郵便を届ける。届け先では時に町の住人との間で交流が発生して、選択肢のある会話が行われる……というのがゲームの基本サイクルだ。会話の選択肢の自由度はそれなりにあって、選択肢によって会話は変わるし、イベントを起こしたり起こさなかったりも選ぶことができる。
初めてプレイした時は割と主人公も地元の人も距離感が近くてびっくりした。荷物を届けに行ったら、昔のこととか今のことを根掘り葉掘り聞かれたり、いきなり猫を預かったりすることになる。ただ慣れてくるとこの交流が楽しくなってくる。最初のうちは知らない人なのに妙に馴れ馴れしい人々に困惑するけど、プレイしているうちにすっかり忘れていた昔馴染みの人を思い出すような感覚になってくるのだ。
町の住人たちはどの人物も個性豊かに描かれる。中でも私が好きなのは木こりのロバートとレンタルショップの人アンジーの2人だ。
住人達の生き方
ロバートは森の奥に1人で住んでいて、林業に携わっている。彼はこの頃持ち上がってきた町の開発プロジェクトとそれによる森林破壊に反対していて、彼にはそれに関連した手紙や書類を届けることになる。
私の場合は手紙の内容について意見を述べたり、彼が町のラジオ放送で意見表明をする手助けをしたりした。社会運動とそれによる変化がどこにでもあって、色々な職業の人がそこに関わっていることが示されるのは嬉しい。
もう1人の私のお気に入り人物であるアンジーは、レンタルビデオショップを経営している移住者だ。映画愛に溢れてるけど町の住人と趣味が合わないのか事業はあまりうまくいっていない。選択肢によっては郵便配達のついでにお試しデッキセットを届けたりして経営を助けることになる。また後で言及するけれど、やりたいことがありそれを実現させながらもうまくいかない彼女とメレディスのドラマはとても好きなものだった。
また幼馴染のケイも忘れられない。ミュージシャンを目指していたけど、ケイは次々に起きるライフイベントでその夢を棚にしまっていた。メレディスと再会してお互いに語り合う中でその夢を思い出しつつ、ケイは人生の中でやりたいことをやる道を探していくことになる。
メレディスのライフイベントと疑わしい二択
メレディスはこうやって町に再び触れていく。それは同時に自分の未来や過去を考えることに繋がっていく。町には自分の過去があり未来を考える人々がいて、その中でメレディスは自分の未来も変化するものとして捉えていくようになる。
家に帰ると郵便配達中の選択肢によってイベントや電話が起きる。電話は主にIT会社の職場と両親からかかってくる。職場からの電話では仕事の相談だったり事業の拡大といった内容が伝えられる。一方で両親からは地元に残るのも悪くないよね、という話をされる。
久々にとった長い休暇の中で彼女は自分の未来を選択できるものとして考え始める。電話という装置を通して提示される二つの選択肢は、どちらも確固たるライフイベントと結びつくものだ。都会と田舎、仕事と家。まるで二律背反するものであるかのようにその二つは示される。
ゲーム中では明示されないけど、これは女性のライフイベントとして想定されるものの典型的な例にも思える。都会の中で仕事をし続け一定の自由を得るか、家というものに結び付けられて暮らすか、という疑わしい二択だ。メレディスはこの二つの岐路に立たされる。
ただ町で暮らしている人々は、人生の選択肢がそんな簡単な二択ではないことを示し続けている。中でもケイは特に女性に要求されやすいケア労働を町の中で行うことを求められてきたけど、メレディスと再会する中で自分のやりたいことを実現するために動き始めるキャラだ。
実際のところ、私のしたゲームプレイではどちらの道でもない結末に終わった。それは成熟とライフイベントが結びついたタイムラインを捨てるラストでもあり、とてもクィアな終わり方でもあった。
メレディスが選ぶクィアな人生の時間
(以下、物語の結末に触れる部分があります)
メレディスはアンジーのレンタルビデオ経営を助ける中で、おすすめの映画を借りて感想を伝えたりしながら仲を深めていく。
ある時メレディスはアンジーと一緒に映画に行くことになり、日程を決めながらアンジーに「これってデートってこと?」と問いかける。直球で「関係をはっきりさせたくて」と言うアンジーも割と攻めてるなと思ったけど、クィアな関係を語り合うということは表象の上で重要なテーマでもある(はっきりさせないことがいい、ということももちろんある)。
このデートでは『ゴーストバスター』『ブルー・ベルベット』『オリビアちゃんの大冒険』という謎の3択から観る映画を選べる(私は『ブルー・ベルベット』を選んだけど、初回デートには向いていなかった気もする……)。
デートの後、2人は一気に関係を進めて合意を取り合ってキスをしてお互いの感情をすり合わせていく。ただメレディスが確実にこの町にいる期間が二週間であるのはお互い知っているし、その先のことは宙ぶらりんのまま終わる。アンジーもメレディスもこの先のことを決められずにいた。
結局、アンジーのレンタルビデオショップ経営はこの町ではうまくいかず、店を畳んで町を出ることに決める。メレディスの自分の人生をどうするか、という問いの中に2人の関係をどうしていくか、という問いが加えられてそれはメレディスの人生をクィアなものに誘っていく。
つまりメレディスに提示されていた田舎か都会か、という二択にもう一つの可能性がここで加わるのだ。そしてそのクィアな可能性は必然的に規範的なライフイベントから逸れるものになっていく。最終的にどういう選択をするかはプレイヤーに委ねられているけど私はアンジーと一緒に生きる選択肢を選んだ。
その選択をするとメレディスはアンジーと一緒に町を出て、会社も辞めちゃって旅に出る。ある意味で気楽なラストだけど私はすごくこのルートが好きだった。そこにはクィアな生き方を選ぶ醍醐味と、その生き方を支えてくれる逸脱した友情が横溢していたからだ。
このルートでは、2人はバンで旅に出る。このバンは湖畔のキャンプ場にいたヒッピーの男女からメレディスが譲り受けたものだった。2人は町の社会はもちろん、より広い体制的な社会から逃げながら生きていた。
人々によって作られるクィアなファンタジー
もらったオンボロなバンを整備してくれたのは車の整備士を目指す女性だった。町の中で生きることに限界を感じて不登校気味な彼女とメレディスはアンジーの貸してくれた映画を通して仲良くなっていた。
そういう町の周縁にいる人々のつながりによってこのラストがある。それは成熟と結びついた加齢によるライフイベントの直線的な流れを軽々と超えるエンディングで、私はとてもクィアなものだと思った。
ある意味では、このラストはクィアな人間に過剰な期待を寄せるもので、すごく都合のいいラストなのかもしれない。マジカルなクィアな出会いがあって、エリートが現実的な人生から抜け出すというクリシェでもありファンタジーでもある。田舎町みたいなものへの幻想もたくさん詰め込まれているしメレディスは差別や偏見にはあまり悩まないし直接的そうした描写もない。
それでもクィアな関係と選択が、人生の安定を裏切って幸せになる予感を見せてくれるこのエンディングは私にとってなんだかホッとするものだった。そう感じられた一つにはこのクィアな選択の中でメレディスが決して受け身ではないということもあるし(彼女はむしろ積極的にレズビアンな関係を作っていく)、なにより私が今そういうファンタジーを必要としていたからなのだと思う。
クィアな関わりを頼りに人生をめちゃくちゃにしてライフイベントを投げ捨てることの肯定。『Lake』というゲームはそんな応援を気軽にくれる。
過去の未来の可能性を今、想像するということ
『Lake』の舞台は1986年だけど、発売されたのは2021年だ。その間には40年近い差がある。今だったらメレディスは何歳になっているだろうか。ゲーム内でメレディスは40代として描かれるから、もう70代後半くらいといったところかもしれない。
この過去完了未来とでもいうようなエンディングのあり方に、不思議な意味を感じた。ゲームはメレディスの未来を開かれたものとして描くけど、今ゲームをプレイする私たちにとってメレディスの未来の大部分はすでに過去になっている。そういう風にメレディスの今を想像する時、私はなんだか勇気づけられる気がしてくる。
メレディスの今を想像することは、私が体験した過去から作られる未来を想像することであり、同時に、今の私から見て過去にある/あった人生を想うことでもある。
そんな風にメレディスのクィアな人生と未来の可能性を捉える時、自分の人生にも今だけではなく過去と未来があると思える。そして、その今も未来もいつか過去になるのだと信じられる気がしてくる。それは、自分の今も未来もとても不確かで、数瞬後には切れてしまうのではないかという不安がいつもかたわらにあるからだ。
2023年のプライドマンスは本当に辛いニュースも多かった。そうやって日々ヘイトが身近にあることを感じていると、生きることの難しさを自覚せざるを得ないし、加齢によって未来の幅が狭まっていくように思わされもする。
けれどメレディスの人生の行く末を過去の中に想像する時、私は自分の人生の行く末が過去になって未来の今の中で続いていることを少しだけ信じられる気がしてくる。言い換えれば、私は生きられるのではないかと思えてくる。
ゲームという媒体の中で主体的にクィアな選択を重ねて今を過ごし、その先の未来を想像しながら創造していく経験の舞台が過去にある、ということの意味はそこにあるのだと私は受け取った。
それはクィアな女性のあり得た人生を過去の中に作り出しながら思い出す行為であり、その進行する過去をゲームという形で参加し描きながら追体験することだ。
それは自分に連なる人生を体験することであり、自分の前後にあるクィアな過去と未来を想像することでもあると私は想う。
これからプレイする人向けのポイント解説
・L1R1でタスクリストやマップを見ることができる。割と迷いやすいので気を付けて。
・マップからは自動運転やファストトラベルができる。遠くへ行くときは活用してみて。
・人間が歩く速度がすごく遅い。R2を押しながら歩くとちょっとだけ早くなる。
・クィアな人間が成熟とされるものとは異なる独自の時間を生きることを指す『クィア・タイム』という概念がある。