8月22日
『しゃべくり007』(日本テレビ)に、今夜が最後のテレビ出演ということで男闘呼組が出演していた。彼らの話すエピソードが、80年代後半の芸能界と当時の社会の空気を思い出させるものがあって、懐かしくなってしまった。
男闘呼組がデビューしたのは1988年。私はその頃、中学三年生であったのだが、世の中はアイドル冬の時代でもあり、また自分が思春期となりアイドルよりもバンドの曲が聞きたいとか、洋楽を聞く年頃だとか、そんな気持ちが芽生えるころでもあり、彼らのことは横目で見ていたに過ぎない。けれども、彼らのことを見ていると、めちゃくちゃあの頃のことを思い出すのだ。
そもそもジャニーズ事務所にあって、バンドであり、ロックであり、ちょっと一筋縄ではいかない、むしろ不良っぽいイメージというのは、当時であっても珍しいものではあったが、当時の社会全体の空気からいうと、とても納得がいくのである。
なぜなら1980年代中盤にチェッカーズと吉川晃司が登場し、「アイドル」というものがなかなか成立しにくくなった。彼らを表紙にした音楽雑誌は、『明星』や『平凡』に変わる人気雑誌であり、アーティストがアイドルのような人気を誇っていた。1987年には光GENJIがデビューし人気を誇っていたが、彼らの存在はよく言えば唯一無二、別の角度からすると、少し浮いていた気がする。
アイドル冬の時代に突入していたのは女性アイドルも同様で、そのために菊池桃子は突然ラ・ムーというバンドを組み、小泉今日子はアイドルで初めて、DJが使用するものとされていた12インチのシングルを出し、本田美奈子(だけではなくて、レベッカのNOKKOだってそうだったけれど)は、マドンナの衣装を模していたのだった。
過激なパフォーマンスをするアーティストも多く、吉川晃司がギターを壊したり、シンバルキックをしていたのも、その頃の空気を象徴していたのだ。
この番組を見ていると、メンバーの成田昭次がライブ中に興奮すると客席に飛び込んでいたとか、キャップを被らないでと言われても被っていた前田耕陽とか、ピタピタの皮のパンツを履くため下着のパンツを履かないアメリカのロックスターを意識してパンツを履いてなかったという高橋和也とか、髪をロン毛にしたという岡本健一など、それぞれのエピソードを語っていたが、そういうわが道を行くぜ! というロックな(というと少し雑かもしれないが)空気がアイドルの方にも伝播していたのだ。というよりも、アイドルもロックが好きだったのだ。
また成田は、この頃まだ若かった木村拓哉が自宅に来て、ギターでスキッド・ロウの曲を覚えたからと言って弾いていたとも言っていた。やっぱりロックな時代なのだなと思った。SMAPが活躍するのは、もっと後のことだ。
男闘呼組の主演映画『ロックよ、静かに流れよ』(1988年)の話題もあった。この映画は、ロック好きな高校生の青春群像劇であり、また原作者の実話を元にしているという。あらすじとしては、非行少年と目された少年の死を追悼し、仲間たちがコンサートをするというものだ。
この映画より少し前になるが、1993年のチェッカーズのデビュー曲『ギザギザハートの子守歌』には、「仲間がバイクで死んだのさ」とある。尾崎豊は『15の夜』で「盗んだバイクで走り出す」と歌った。当時は、こうした不良少年、少女の物語が、好まれているような空気があった。その時に中学生であった自分の周りに、不良少年、少女の死のエピソードはなかったが、『ホットロード』を読み、地方都市の不良少女の生きづらさに共感しているような子は、一人や二人ではなかったことを思い出す。個人的に、当時の私が感じていた「生きづらさ」は、時代を覆っていた「生きづらさ」に馴染めなかったことのほうかもしれない、とも思った。
とはいえ、デビューに際してメンバー全員の映画を作るということは、ドメスティックな日本の芸能界の流行りにものっとっている。吉川晃司は『すかんぴんウォーク』、チェッカーズは『CHECKERS IN TAN TAN たぬき』と、自分たちと重なるような役を演じる映画で華々しくデビューを飾るという流れもあったのだった。