ピクミンというあの植物みたいな生き物のことを知っている人は多くても、「ピクミン」というゲームをやったことがある、という人は意外に少ないのかもしれない。
実際のところ、「ピクミン」シリーズはピクミンの可愛さに惹かれてプレイするには、恐ろしいゲームだと私は思う。そこでは労働という行為がもたらす快楽と破壊が描かれている。
今回は2023年7月に発売されたばかりの「ピクミン」シリーズの新作『ピクミン4』をプレイした私の経験を語りながら、本作で描かれる収奪のこと、そしてゲームをクリアをするとはどういうことか、を考えてみる。
「ピクミン」シリーズは、PNF-404という惑星を訪れたりそこに遭難した人々が、星に住んでいる植物にして生物である不思議な存在・ピクミンを使役して、星にある「オタカラ」を集め、土地を切り拓いていくゲームだ。CMとかによく出てくるピクミンは、主人公たちに使われ、たくさん死んだりしてしまう。
そう、「ピクミン」が描くのは、人が見知らぬ土地を身勝手に使い生物を資源として消費していく姿なのだ。それはとても怖い。
けれど、プレイしているうちにピクミンを指揮してオタカラを運ぶことが楽しくなってきてしまう。そしていつの間にか初めの頃に感じていたはずの怖さが消えてしまう。
そこが一番恐ろしかった。
ピクミンと罪悪感

『ピクミン4』より (C)2023 Nintendo
「ピクミン」シリーズで主人公たちが星を訪れてピクミンを使役するようになる経緯は色々だ。初代『ピクミン』では、運送会社の社員の主人公が星に墜落して脱出を試みるというものだし、『ピクミン2』では倒産しかけた会社を立て直すために、星に散在するオタカラを集めてお金を稼ぐという物語が背景にあった。『ピクミン2』はその意味で典型的な資本主義による資源の収奪を描いている作品だ。
新作である『ピクミン4』の主人公は、遭難者を救助するレスキュー隊という設定になっている。どの作品でも、主人公たちにはどうしようもない事情で、惑星の探索を行うことになるという点は共通しており、これらの物語はゲームの根幹である収奪と使役をプレイヤーが正当化する言い訳のように機能している。主人公たちを危機に陥れるどうしようもない事情を作り出す原因でもある社会的な部分には、直接アクセスすることもない。
ピクミンたちについても、ピクミンたちが実は単に使われるだけでなく、外から来た人々を逃さない様にコントロールしていることが示唆される。ピクミンたちが人と共にあることで強いメリットを得ていることや、ピクミンが人間にとっても脅威であることを示す挿話だけど、これも生物との対等な関係を描くというよりも、ピクミンを使役することの罪悪感を減らすためのものであるようにも思える。
一方で「ピクミン」シリーズの物語の魅力は割と身勝手な理由で危機におちいる人たちがよく出てきて、その人たちは強く咎められたりはしないところだと思った。『ピクミン2』で会社が倒産しかけた理由は、新入社員が会社の資産である高級食材を全部食べたから、という我欲によるものだし、『ピクミン4』では割とびっくりするような理由で遭難する人たちがたくさん出てくる。
「ピクミン」シリーズの登場人物たちのこういう雑な失敗こそが、「ピクミン」シリーズの背景にある社会や制度を破綻させてみせるのだ。
『ピクミン4』にハマっていく

『ピクミン4』より (C)2023 Nintendo
ただ『ピクミン4』をプレイしていると、次第にそんなことを忘れていってしまった。『ピクミン4』のゲームサイクルはすごくよくできている。
『ピクミン4』は二重遭難を描いていて、遭難したキャプテン・オリマーという人物を助けるために出発したのに、これまた遭難してしまったレスキュー隊を助けるために、新人の主人公がみんなを助けに行く、というストーリーだ。ちなみに主人公が救助する人々はオリマーやレスキュー隊の人たちだけでなく、オリマーの発した救難信号に引き寄せられてきて、やっぱり遭難してしまった多種多様な人たちも含まれる。
人々を助けるために主人公は、レスキュー隊のロケットのエネルギーになる力「キラキラエネルギー」を持つオタカラをピクミンを使って集めて、ロケットに備えられた救難信号を受け取るレーダーの力を高めつつ、人々を救助していく流れになっている。
このオタカラ集めに、私はだんだんハマっていってしまった。
レスキューを忘れる
この作品にはゲーム内に1日という時間の単位があって、朝から夕方までのその限られた時間の中でフィールドを探索してオタカラを集めることになる。
別にゲーム内で何日過ごしても特にペナルティはないから、ゆっくりやってもいいのだけど制限があるとつい効率的にプレイすることに夢中になって、ピクミンに仕事を割り振って出来る限り1日で多くのことをするやり方をずっと考えてしまう。ピクミングループAには橋を建設させて、ピクミングループBにはオタカラを運搬させて、その間に自分は野生の生物と戦って……と細々とした計画を練るのがとても楽しいのだ。
さらにフィールドのあちこちに点在するオタカラを色々集めたりしていくことで、未知の世界だったフィールドに慣れ親しんでいって、これも楽しかった。
『ピクミン4』で舞台になるPNF-404は、我々が住む現代も地球によく似ていて、文明の跡が真新しく残っているけど、それを作ったはずの人類がいない惑星だ。
ピクミンたちも主人公も、文明を作ったはずの人類よりはすごく小さくて、『ピクミン4』ではこの小さな存在から見る人類の遺跡がとても魅力的に表現されている。だから、フィールドを探検して少しずつどこに何があるのかを把握していくのはとても楽しい作業になる。
またマップにはオタカラなどの収集率も表示されていて、それに煽られてついどんどんオタカラを集めてしまう。このように『ピクミン4』のゲームサイクルはとても良くできている。
自然とストレスなくオタカラの収集と、ピクミンを使った作業の効率化を促し、それがとても楽しい。気づくと私はどんどんオタカラをねちっこく集めるようになっていた。
我に返る

『ピクミン4』より (C)2023 Nintendo
でも、ふとした拍子に「あれ?」となった。きっかけは思い出せないけど、ある時レスキューよりオタカラを集めたりマップの収集率を上げることに夢中になってる自分にハッとしたのだ。
本来、『ピクミン4』はレスキューに必要なエネルギーをオタカラから集めるという話だった。でも私はピクミンを指揮して、1日の中でできる限り効率よくオタカラを集めていくことに夢中になり、必要以上のエネルギーを集めているし、何よりレスキューのことを忘れていた。
私はメインのレスキュー目標だったはずのオリマーの位置が分かっても、オリマーのことなんか無視して、マップの穴埋めに勤しんでいる。
おかしい……。
私は、主人公はこんなことのために来たのではなかった。会社を立て直すことを目的としている『ピクミン2』とは違い、『ピクミン4』をプレイする私には、もっと崇高な目的があったのに……。私はいつのまにかこの惑星の土地を拓いて、資源を収奪するのにすっかりハマり、あらゆる物語上の目標を忘れてしまっていた。
なんだかそのことにゾッとした。
暴力とゲーム

『ピクミン4』より (C)2023 Nintendo
それから私はプレイがだんだん出来なくなっていってしまった。
ゲーム内の物語が示す目的と、ゲーム内で実際にプレイヤーが取る行動はどうしてもズレる。ゲームの自由度が高ければ高いほど、そういうことは往々にして起きる。
以前取り上げた『The Last of Us Part2』の物語は暴力を正面から描こうとしたけど、ゲームの中で流れ作業のように発生する戦闘は、個人へ向ける暴力の痛みをめぐる物語とどうしても相反するところがあった。
ただ『ピクミン4』の物語と目的はプレイヤーの罪悪感を減らす方向に進んでいて、それがピクミンたちを使役して星の資源を奪うことによってプレイヤーの中に起きる痛みと、結果的に強い矛盾を引き起こしているように思えた。罪悪感を減らそうとすることで、向き合わないでいた罪悪感は、結果的にどこにもいかないまま体の中に積もっていき、忘れていた矛盾は一度気づくと忘れられなくなってしまった。
私は暴力の責任と、暴力の結果によって起きる痛みを、プレイヤー本人が負うようなゲームの方が好きだ。少なくとも、プレイヤーが行使する暴力と物語の痛みがある程度一致し、そこに痛みがあることを明らかにしてほしい、という思いがある。
『ピクミン4』ではピクミンが死ぬことの痛みは描かれるが、私が体験した収奪をめぐる痛みは、それほど明示されないまま話が進んでいってしまっていた。
そんなわけで私はなるべく物語とゲームプレイを一致させようとした。回収する必要のないオタカラは無視してレスキューに邁進したり、できる限りピクミンを使わない縛りでやってみたり。でもそうすると、回収してないオタカラがあることをシステムから通知されたりして、消化不良感が出てしまう。
結局、なんとか当初の目的であるオリマーの救出を終えたところで、私はそれ以上続けられなくなりプレイをやめてしまった。
『ピクミン4』をクリアする

『ピクミン4』より (C)2023 Nintendo
ただその挫折を、私はネガティブなものだとは考えていない。むしろプレイをやめたというより、私はその時に『ピクミン4』をクリアしたのだと感じている。
現代のゲームは、ボリュームが増大しやり込み要素や分岐も増え、メインストーリーとは直接的に関係のないサブの物語も多い。本編でさえ数時間では終えられないし、サブの物語も追おうとすれば、何十時間かそれ以上もかかってしまう。
そんな中で、ゲームを遊び終える地点というのがどこにあるのかは曖昧になりつつもある。一度クリアにたどり着いてスタッフロールが流れた後にも、新しい展開があったりするゲームも決して少なくない。
逆に言えば、ゲームを遊び終える地点はある意味でユーザーに託されているのかもしれない。その地点を選ぶことこそが、プレイヤーがゲームというシステムに対峙することの出来る場所なのだ、ともいえるかもしれない。
その意味で言えば、私は『ピクミン4』のプレイをやめたのではなく、『ピクミン4』を遊び終えたのだ。『ピクミン4』というゲームはそうして遊び終えた地点から逆算され、レスキューという目的を忘れて、収奪と開拓に嵌りこんでいく外からやってきた人間の愚かさを体感するゲームとして再定義される。
かくして私のプレイした『ピクミン4』では惑星PNF-404に遭難した人々はみな惑星に捕らえられ、帰ることができなった。遭難者たちはどうなったんだろうか。ピクミンと同化して、永遠に惑星でピクミンと真に共生することになったのかもしれない。それはそれで恐ろしいし申し訳ない話だけど、私の『ピクミン4』はそうやって終わってしまった。
ゲームの良さの一つは、そうやってゲームの枠組みや目的を読み替えてプレイすることが出来ることだと思う。もちろん、それはどんな解釈も可能だとか、誰であっても読み替えればどんなゲームも楽しめる、という話ではない。プレイヤーがゲームの大きな枠組みに抵抗してプレイすることの出来る可能性がゲームには分かりやすくある。
その可能性は失敗とも繋がっている。失敗することでプレイヤーはゲームに小さく対抗できる。記事の前の方で私は「ピクミン」シリーズにおける失敗の扱われ方について言及した。失敗は規範の崩壊に繋がっている。失敗というものへの対処を安全に出来るのもゲームの魅力なのだと思う。
そうして私はレスキューに失敗してしまった。
これからプレイする人向けのポイント解説
・『ピクミン4』はNintendo Switch専用ゲーム。ダウンロード版はストアによっては割り引き販売されているところも。
・キャラクターメイキングはいくつかのパーツを組み合わせる方式で性別を選ぶことはない。これはここ数年でキャラクターメイキングの主流になりつつある方式。
・『ピクミン』はかわいい見た目とは裏腹に結構シビアなゲーム。特に原生生物と呼ばれるピクミン捕食者との戦いではピクミンがたくさん死んじゃうこともよくある。
・原生生物と戦う時はとにかく回り込むこと。また途中で解放される生物図鑑からは模擬線をすることもできるのでここで慣れるのも手。
・ピクミンが死にすぎちゃって悲しいときは巻き戻してやり直すこともできる。
・救助犬オッチンは育てると最強!!!困ったら頼ると助かる。
・パズル的な要素も結構多い。難しいときは動画をみるのもアリ!
・本文で触れたクィアと失敗の関係についてはジャック・ハルバースタムの『The Queer Art of Failure』(2011)などで詳しく述べられている。ただし邦訳はまだない……。