9月6日 モヤモヤとこっち側
NHKの『クローズアップ現代』は、「迷って悩んでいいんです 注目される”モヤモヤする力”」として、ネガティブ・ケイパビリティを取り上げる回だった。ゲストは『答えを急がない勇気 ネガティブ・ケイパビリティのススメ』(イースト・プレス)を出版した枝廣淳子氏。
枝廣氏は、「複雑で不透明で先行きの見えない時代」である一方で、「タイパとか効率重視、即決断、即行動が求められる」ということがなかなか両立しないと多くの人が感じているのではないか、そんな中「そんなに急がなくていいんだよ」というメッセージが今響いているのではないか、と語る。
これは、枝廣氏の本の冒頭にある、VUCA=変化し(Volatility)不確実で(Uncertain)複雑(Complexity)、さらに曖昧=両義性がある(Ambiguity)現代の特徴を言い表す言葉を、番組用に説明しているのだと思われる。
番組は「モヤモヤ」という言葉を押し出して構成していた。まずモヤモヤする力のテストをして、モヤモヤ力の高い人と、低い人のチームにわけ、次に「社会人の学び直しをどう増やすか」という議題についてディスカッションしてもらい、全員が納得すれば終了という実験を行っていた。
モヤモヤ力の低いチームは、スマホを使って検索をしはじめ、モヤモヤ力の高いチームは、途中で休憩をはさんでいた。その間に、低いチームは、何かひとつの結論に向かって議論が進みはじめ、「うまいことまとまった」と満足気で、皆が一体感を持ち、拍手で終わっていた。
モヤモヤ力の高いチームは結論に向かわず、三時間を過ぎても話が一つにまとまることはなく、アイデアを出し続けていた。
こうした考え方は、ビジネスでも注目されているらしい。効率主義が行くところまで行って、そのカウンターが現れたということだろうか。
私は、ネガティブ・ケイパビリティに注目が集まっているということは知らなかったが、おおむね近い考え方を持っているとは思う。
また昨今のコンテンツも、こうした結末を求めずに、ゆるく考え続けるようなものは増えているように感じる。誰もが思い浮かべるのは、宮崎駿の『君たちはどう生きるか』だろう。それ以外でも、この日記でもよく取り上げている、『あちこちオードリー』(テレビ東京)にしろ、無観客配信ライブの『明日のたりないふたり』にしろ、『おかえり、こっち側の集い』(日本テレビ)にしろ、Netflixで配信された星野源とのトークバラエティ『LIGHTHOUSE』にしろ、オードリーの若林がやっていること全般はネガティブ・ケイパビリティなのだと思う。
もちろん、彼がネガティブ・ケイパビリティそれを意識してやっているとは思わないが、番組公式の言葉を借りると「華やかな芸能界に潜む小心者で色々考えちゃう」のがこっち側であり、ネガティブ・ケイパビリティであると考えられるだろう。
振り返ると、こうした考え方に触れることは近年多かった。個人的に思い出されるのは、イ・チャンドン監督が2019年に『バーニング 劇場版』の公開に合わせて来日したときに私が担当したインタビューだ。
「何と戦えばいいのか分からない」 韓国の巨匠イ・チャンドン監督が『バーニング 劇場版』で描いた人間の怒り
『バーニング 劇場版』は、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」を原作とした映画だ。監督はインタビューで、「90年代に入ってから、若者は、洗練され、自由やクールな生き方を模索するようになりました。そんなときに象徴的なものとして村上春樹の文学があったのです」とし、「一見すると洗練されているように見えるのに、未来は見えず、不安である。どこかに問題はあるのに、それが何の問題かわからず、何と戦っていいのか分からない。だから若者は無気力になってしまい、怒りを感じているけれど、それを内面に秘めてしまう。そんな一面があるのではないでしょうか」と語っている。
イ・チャンドン監督の作品は、一回見ただけではわからないことが多い。二度目、三度目に見て、もしかしてこんなことを言おうとしてるんじゃないかと思いはじめる。かといって明確な答えにはたどりつかず、ずっと考え続けることも多い。
『バーニング』も監督は「最後に、ジョンスは怒りを爆発させます。そのときのジョンスの行動は、普通に考えると、証拠を消すためのようにも見えますが、あの行動を視覚的に見たうえで、私からのひとつの『質問』として受け取ってほしいとも思いました」とも言っていて、イ・チャンドンのしていることは、ネガティブ・ケイパビリティに近いのかなと思った。
今回の『クローズアップ現代』のように、30分である程度の結末に向かって終わらせないといけない番組、しかも投げっぱなしというわけにいかない番組、もっといえばネガティブ・ケイパビリティという概念をわかりやすく伝えるために「モヤモヤする力」などと、キャッチーな言葉に置き換えるような構成は、どちらかというと、ネガティブ・ケイパビリティと反対の性質があるのではないかとも思ってしまった。
この番組を見て、こうしてなんとなくどこにもたどり着かない文章を書くきっかけにはなっていているので、それはそれでいいのかもしれないが。
ただイ・チャンドンの映画、特に最近見返した『シークレット・サンシャイン』のことを振り返ると、人にはどうにも解決しようのないことに出くわすことがあり、それについて考えることをやめられない様子が描かれている。イ・チャンドンの他の映画にもその要素はあるだろう。考えても考えても自分なりに着地点を見つけられないということは、終わりがないということであるし、知りたくなかった自分の一部に触れることにもなる。それは決して楽なことではないのだというような視点も見えたのだった。