
(C)「国葬の日」製作委員会
大島新『国葬の日』を観て「あいまいな日本の民意」というフレーズが頭に浮かんだ。今年はじめに大江健三郎が亡くなり、彼の有名な「あいまいな日本の私」という言葉をニュースで耳にしていたからだろう。
大島新監督はテレビからドキュメンタリー映画界へと活躍の場を移して以来、「選挙」を通して「日本の民主主義」のありようを描いてきた。『なぜ君は総理大臣になれないのか』(2020)『香川1区』(2022)と監督作を立て続けに公開し、また『劇場版センキョナンデス』『シン・ちむどんどん』のシリーズ(2023)や『No選挙、Noライフ』(2023)をプロデュースするなど、ものすごい勢いで時事的に映画を生み出している。前作からわずか一年にして早くも公開された監督作『国葬の日』もまた、日本の民主主義の「今」に迫ったものである。
「アベ」という記号と「あいまい」
2022年9月27日、安倍晋三元総理が「国葬」という儀式にかけられた。『国葬の日』は題名のとおり、その一日に全国10都市で撮影した素材を一本の映画に構成したものだ。
安倍元首相は在任時、選挙街宣の現場で彼に反対する意見を口にする人を指して「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と公言した人物である。その世界は「敵・味方」に分かれている。いっぽう、敵対する人々にとって安倍氏はカタカナ表記の「アベ」として知られている。こちらの世界もまた、「敵・味方」に分かれている。シンボル化したこの記号的存在は、二つに分けられて理解される政治的立場やイデオロギーを示す座標のように機能している。
日本国が55年ぶりに行なった「国葬」は、この「アベ」という記号に対する社会の反応を誘発した事件だった。報道は「賛成4割、反対6割」と世論調査を報じ、識者は「国を分断した」と語り、SNS上では「敵」を罵る多くの言葉が飛び交った。そして日本政府は、いつものように粛々と儀式を執り行った。
しかし世間には当然の如く、普段通りの日常を生き、ほとんどなんの関心も持たない人々が暮らしていたのである。本作の題は、国葬の「是非」や「意味」ではなく、「一日」である。だから、日本全国ひろく様々な意見や態度を持った人々が、その日何をしていたのか、この話題を振られてどう反応したのかを時系列で順に見せていく。そこではあまり実体のありそうな「回答」や「意見」は現れてこない。
国葬が行われているのに気づきもせずほとんど意識しない人。普段考えていなかったのだろう、政治の話題について訊かれ、自分の思想や語彙の貧困に恥じたり躊躇したりしている人。質問されるとまず、「よくわからないんですけど」や「どちらかと言うとなんだけどね」と、はっきりとこう思うのだと意見を口にするのを躊躇し、言い訳するポーズをとる人。政治については「公に意見は言わないですね」とか「深く話さないようにしている」という人もいる。饒舌に意見を述べる人もまた、一聴すると明確な意見なのだが、よくよく観察すると、立て板に水でなめらかに発せられたその言葉にはどこかテンプレート感がある。型にはまった言葉でしゃべっているのだ。
映画はこうした「あいまい」な言動を活写している。映像に映った表情や口調、話している文脈が、言葉単独ではすくいとれない「あいまい」の内実を伝えている。
川端と大江が語った「あいまい」という「日本」の特徴
「アベ」という強力な磁場を放つ記号。「敵・味方」や「賛成反対」と、そこからの距離で理解される「日本社会」にどれほどの意味があるのだろう?
このような疑問で頭を抱える。一つの命題についてあまねく国民の意図を汲むことが民意の理想であるはずだ。ならば、この社会の民主主義というしくみはいったいどれくらい機能しているのだろうか。そのような「民意」を前提に社会が動くのなら、われわれは何を見ないふりをしているのか。このような、「あいまいな日本の民意」とはいったいなんなのだろうか。
「あいまいな日本の私」とは、大江健三郎による1994年のノーベル文学賞の受賞記念スピーチのタイトルだ。同じくノーベル文学賞のスピーチに川端康成が題した「美しい日本の私」(1968年)を引用してもじったものだ。
大江は、ふたつの異なる「あいまい」を対比的に意味づける。戦後経済成長期に川端が「初の日本人ノーベル文学賞受賞者」として、おそらくは西洋社会からのオリエンタルな欲望に応える形で日本の古典的美徳として唱えたのが、「漠然 vague=あいまい」さの美である。大江は受賞した二人目の「日本語の作家」として――「日本人作家」という表現を慎重に避けつつ――これを引き受けながら、日本社会はむしろ近代的自我の中にある「両義的 ambiguous=あいまい」な分裂を抱える存在だと評した。
「日本」の特徴として語られるいずれの「あいまい」も、近代における日本社会の立ち位置から言葉にされてきた。近代化の過程において日本は西洋諸国への対抗関係によって自己を規定してきた。こうした認識をなぞり演じるに、ノーベル文学賞受賞という舞台はあまりあるものだった。かりに2022年の今も日本が「あいまい」なのであれば、いったいその「あいまい」はいかなる形をしているのか。『国葬の日』はその問いに対して、ミクロな個人が持つ「意見」のありようから「あいまい」を実体的に捉えることで答えたものではなかっただろうか。
「なぜだか」わからない、あいまいな近代国家・日本
『国葬の日』に映り込んだ日本の民意の「あいまい」は、川端と大江のどちらのものでもあったように見えた。
そこに映る個々人の言葉や振る舞いは、きわめて「漠然」としている。選挙事務所に国葬当日わざわざ献花に来たり、安倍氏は親しみがあって好きだと答えるような人が、政治家としての評価や政策についてはとくに気にしたことがないと無遠慮に答える。こうした人々の話しぶりは、公私をはっきりと区別しないことや、あるいは政治に対して明瞭な意見を持たないことをかえって美徳だと考えているように見える。それは、エリート主義へ対抗する大衆性を美徳とする、反知性主義的なふるまいにも見える。公共的な議論を交わすための適切なモードを身につける者がいかに稀なのか、国葬についてのインタビューは暴きだしてしまった。
ここには、「両義的」な日本社会の由来がかかわっていないだろうか。日本という国は近代国家の仲間入りを果たしたはずである。だから、社会は近代化していなくてはならないし、法や制度などの仕組み、マナーや品位など社会的な望ましさの倫理は、近代的な規範に則っているべきである。日本社会は建前上はそういうことになっている。しかし、「あいまい」なわたしたちの言葉やふるまいを観察すると、その建前は見事に瓦解する。なぜだかはわからないのだが、どのように「公共のコミュニケーション」が制限されているのは、はっきりと映し出されているからである。
「なぜだか」がわからない。だから偏頭痛にも似た“もやもや”が頭に残る。この感覚のなかに、民主主義の礎となる、健全な民意の素がある気はする。繰り返しになるのだけど、本作の題は「国葬の日」であり、「国葬の是非」ではない。「あいまいな日本の民意」という主題を、画面越しに「観るもの」であり、“民意”を構成する一人として「考えるもの」である。とてもドキュメンタリーらしい。