フェミニスト、これまでもこれからもゲームやってる

文=近藤銀河
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 wezzyの更新終了・閉鎖に伴い『フェミニスト、ゲームやってる』も残念ながら今月のこの記事でお別れということになる。

 『フェミニスト、ゲームやってる』というこの連載は、とても開かれたものだった。フェミニストがゲームをやってるということが、特に日本語圏ではあまり認識されていないと感じる中で始まったこの連載は、ゲームをやっているフェミニストがたくさんいることを見つけていく過程でもあった。

 連載を続ける中で、たくさんのゲームをやってるフェミニストに出会えたし、フェミニストたちがゲームを始めてくれた。

 『フェミニスト、ゲームやってる』が開かれ、広がっていく連載になったのは、そうしたフェミニストたちのおかげだったと思う。それは本当に楽しい旅だった。

 これからもフェミニストがゲームをやったり、ゲームを作っていく以上、この旅はまだまだ続いていくし、それぞれの旅は交差し続けるはずだ。

 ひとまずの最終回となる今回は、その旅が続き、広まることを願って、連載の中で扱いきれなかった作品や、単純にフェミニストの私がやっていた作品の記憶を語っていきたい。

 そこからまたみなさまのフェミニスト、ゲームやってる旅が交錯したり、続いていきますように。

『FRONT MISSION ALTERNATIVE』

 1997年に発売された本作は、2023年の今でも日本の大作ゲームの中でも最もセクシュアルマイノリティの表象が中心にあるゲームかもしれない。

 SFロボットシミュレーションゲームである本作の中で扱われるのは「ゲイの偏見はないけど自分の周りにいるはずがない」というタイプの不可視化の差別と偏見だ。セクシュアルマイノリティを差別しないとしつつも、実際にはその存在に無関心であり、周囲にいないとしながら、いて欲しくないという思いの透けて見える差別のあり方はとても現代的なものだ。

 主人公のマッコイの持つこの偏見が、ゲームの中盤ではドラマの主軸となる。その中でマッコイに想いをよせるゲイ男性や、トランスであることを明かさず埋没していたトランス女性などが登場する。

 こうしたセクシュアルマイノリティへの差別は、アフリカ系ヨーロッパ人であるマッコイが自身のルーツと向き合い始め、西欧によるアフリカの搾取への抵抗に参画するキッカケになっていく。

 残念ながら『FRONT MISSION ALTERNATIVE』は典型的な、ゲイが死ぬことでシスヘテロの男性が奮起する物語でもある。また女性差別についてはほとんど触れられず、主要なキャラクターの多くが男性で固められている。私はこれらを時代の限界というふうには片付けたくない。

 その物語は同性愛者や女性へ向けられる差別構造の表れであり、当時からそうした差別をめぐる議論はあったからだ。それは時代の限界という言葉で軽く片付けられるものではない。

 セクシュアルマイノリティへの差別を批判的に描きつつ、同時にセクシュアルマイノリティへの差別的な描写にも絡め取られているのが本作だった。

『Outcast Lovers』

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 『Outcast Lovers』は数十分で終わるとても短いゲームだ。だけど人生の中の重要な時間と同じように、その数十分はとても重く体に残った。

 色数を抑えた抽象的なグラフィックで描かれるのは、イギリスの海岸沿いに暮らす女性カップルと、難民の少年の邂逅だ。

 二人は何かの事情で市街地から追放されていて、ひっそりと海岸で暮らしている。ある時、海辺に遭難した難民の少年が打ち上げられる。道をよろよろと進む少年を、二人は車ではねてしまう。

 彼女たちが暮らすイギリスでは、現実同様に難民は政府機関から厳しい扱いを受けている。そしてEPGと呼ばれるグループが、国を守ると称して、移民や難民を監護に監禁しているのだ。

 彼女たちはすでに追放されて海辺に暮らしている状態であり、直接は語られないがなんらかのリスクを抱えていることが伺える。車ではねてしまった少年をひとまず家に引き取り(カップルの片方は医療関係者のようだ)、今後の処遇を相談し始める。

 ゲームの中で操作できることは多くない。映像の画角を変えたり、時たま出てくる選択肢を選ぶだけだ。それでもこのゲームの体験はとても重く印象に残り続けている。

 日本における難民認定率の低さ、そして入国管理局における虐待を思い出せば、ゲームの内容はとても身近に存在するものだ。

 現在もガザにおける虐殺、シリアの内戦、ウクライナへの侵略、各国における女性やマイノリティへの差別。住んでいた地域を逃れる必要に迫られる人々を想像させられるニュースは日々流れてくる。

 そうした情勢を考えながらプレイをすると、セリフを送るためのクリックがとても重く感じられた。

 ゲームは全編英語となっているが、クリックしない限り文章は流れていかないので、ゆっくりと読みながらプレイできる。画像認識の翻訳アプリや、辞書を使いながらゆっくりプレイすることができる。

『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE』

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 中世の日本をベースにしたファンタジー世界を描く『SEKIRO』は天皇制についてのゲームでもある。

 雪深い葦名と呼ばれる地域を舞台にしたこの作品では、主人公の狼と名乗る忍びが、御子と呼ばれる不死の血を持つ少年九郎と共に戦っていく姿が描かれる。

 狼が戦うのは、中世日本の様々な権力者たちだ。地元の豪族、領主、寺院勢力、武家貴族、様々な有力者たちはそれぞれ独自のやり方で御子とつながろうとし、その力を求める。

 葦名は中世日本の縮図でありその象徴なのだ。

 御子の血の力は武家貴族とも繋がりが深く、寺院勢力はその力を模倣しようとし、領主は御子の力を用いて国を維持しようとする。ゲームの宣伝初期段階では皇子と表記されていた御子は、葦名の中で天皇のような役割を担う。不死の力はその点で、天皇の持つ政治的な権力の比喩として理解できる。

 物語の中盤、不死の血の力が世界を歪めていることを目の当たりにした御子と狼は、その力と血を断つことを決意し、新たな戦いを始めていく。それは葦名における天皇の力を断つための戦いでもある。

 ファンタジーにおいて支配者の退場やその歴史の移り変わりはある種の定番だ。日本を題材にしたファンタジーである『SEKIRO』は葦名という小さな空間に中世日本の政治構造を描き出し、その中で天皇の立ち位置をラディカルに描きながらそれを終わらせる戦意を体験できた。

『オリオリワールド』

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 ジェンダーを決めずに自由にプレイヤーキャラクターの見た目を設定できるゲームはどんどん増えているけど、『オリオリワールド』ほどその幅の広いゲームはないだろう。wezzyでのイベント『フェミニストたち、ゲームやってる』でもまきちゃんさんと話題になったが、本作はとてもキュートな作品だ。

 ゲームではいつでもキャラクターの見た目を変えることができて、髭のついた顔にスカートを合わせても、とっても素敵な見た目になるようにデザインされている。

 アメリカのカートゥーンアニメを思わせるデザインのこのゲームでは、多種多様な服と顔のパーツが用意されていて、キャラクターメイキング自体が、ジェンダーの二元論をぶち壊すような体験になっている。

 『スプラトゥーン3』や『ピクミン4』といったゲームでも、デフォルメされた見た目のキャラクターを、ジェンダーを選択することなく作れてはいた。

 しかし、どちらの作品も顔などのパーツは抽象化されたジェンダーと結び付けられないようなパーツを用いることでそれを実現していたのに対し、『オリオリワールド』では髭のように既存の社会でジェンダー化されているパーツをあえて取り入れることで、ジェンダーの流動性や幅広さが提示されているのが好きだった。

 スケボーを題材にしたこの作品では、自由で開かれたスケボー文化という理念を、多様なヴィジュアルで示しつつ六十年代のヒッピー文化の要素も取り入れて表現している。主人公を導くスケボーの師匠がヒッピーのおばあちゃんみたいな感じのキャラだったのも好きな要素の一つだ。

 ストリートの各要素をスケボーの目によって読み替え、新たな空間として創出するような各ステージのヴィジュアルも、プレイしていてとても楽しい。

 一方でストーリーの面ではスケートボードの神々の試練を受けて、選ばれた存在になっていくという古典的なRPGのような物語が展開されていて、これはゲームが体現しようとしている自由さや解放感を裏切るものになってしまっていた。開かれた文化としてのスケボーと、神がかかわるような物語には齟齬がある。

 その点において本作は競争原理の中で自由や想像力を搾取するポストフォーディズム、ポストフェミニズム的な作品にとどまってしまっている。

 それでも『オリオリワールド』は私に自由なスケボー文化を体験させてくれた。そこでは失敗は次のクールな動きの可能性だったし、失敗自体が仲間との思い出になった。今でも私は時々この世界を訪れて、楽しく滑っている。

『アンチャーテッド 古代神の秘宝』

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 ミドルエイジの男性たちがきゃっきゃしながら歴史遺産を破壊しつつお宝を探すゲーム『アンチャーテッド4』のDLCであり、独立したスピンオフでもある本作は、女性たちがきゃっきゃしながら歴史遺産を破壊しつつお宝を探すゲームだ。

 女性が主人公のゲームは増えつつあるけど、女性同士のバディモノはまだ少ない。個人的にはそれだけで結構テンションが上がってしまった。

 『アンチャーテッド』シリーズはキャラクターたちが様々な状況や背景に反応して喋ることで知られているけど、『古代神の秘宝』でもその良さはいかんなく発揮されていた。

 セリフはよく練られており、フェミニズム的な話題を含むものもあるし、主人公のひとりナディーン・ロスの元恋人で破滅を目指すマッチョな国粋主義のテロリストとナディーンが、インドの歴史的な遺跡を舞台に決別していく物語も面白かった。なにより主人公の女性ふたりが喧嘩や裏切りの中で、絆を作り上げていく様子が好きだ。

 また、本作では『アンチャーテッド4』本編で敵役として登場したキャラクター、ナディーン・ロスが主人公の一人として活躍する。女性の力強く野心的なキャラクターが悪役として描かれるのはステレオタイプの一つだが、ここではそれが覆され、むしろ本編で敵対していたキャラクターのマッチョさが問題として強調されている。

 とはいえ、正直なところフェミニズム的な魅力はやや薄いかもしれない。そもそも『アンチャーテッド』シリーズ自体が女性主人公のゲームとして知られる『トゥームレイダー』シリーズの男性版だった。そのことを踏まえれば、本作を何かを成し遂げた作品として評価することは難しい。

 また最終的に、物語が父の名誉の回復や父との和解になってしまった点はとても残念だった。あらゆる危機を機転で切り抜けていく彼女たちにはもっと自由な世界があったはずだし、もっとラディカルな物語だったらな、とプレイを終えてからずっと思っている。

『Goodbye Volcano High』

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 『Goodbye Volcano High』は高校生たちが、卒業を前にした最後の一年を過ごす姿を描く青春モノのADVゲームだ。

 キャラクターたちはみんな恐竜の姿をしていて、羽があったり尻尾があったりする。会話で進行していくゲームだけど、見た目はアメリカのカートゥーンのようで、動きも凝っていて楽しい。

 主人公はノンバイナリーのファングだ。ゲームの冒頭からノンバイナリーフラッグとThey/Themと書かれたステッカーが出てきてテンションが上がった。

 ファングはカムアウトしていて、周りにはまた別のトランスジェンダーの友達もいる。ただ、ファングが友達とやっているバンドは少しうまくいっていなくて、そこでの軋轢を抱えているし、出張でいない両親はファングが使っていない名前でファングを呼び続ける(ただし、日本語翻訳ではなぜか弟はファングを姉ちゃんと呼び続ける。原語ではsibという性別を限定しないきょうだいを意味する言葉だったのに、翻訳によってファングのノンバイナリー性は毀損されてしまっている。性別を本人が望まない形で取り扱うミスジェンダリングを見続けるのはとても不快だった)。

 その中で浮かび上がる進路の問題は、ファングと友達の間に亀裂を入れたり、ファングに新しい出会いをもたらす。

 ゲームの中で、将来の不安は地球に近づいてくる隕石として実体化する。ニュースで繰り返される巨大隕石のニュースは、主人公たちの未来の存在を消し去ってしまう。主人公たちが恐竜なのは隕石によって消えてしまうからなのだ。

 隕石の墜落は、刹那的な生を主人公たちにもたらす。私にはそれは、現実にあるさまざまな壁の象徴にも思えた。

 男女差別、LGBTQへの差別、障害者への差別、いくつもの天井が、未来を考える力を奪い、同時に今を生きることに注視する独特の生を生み出す。

 『Goodbye Volcano High』が描いていくのは、そうした生のあり方の持つ膨大なパワーだ。未来を奪われた怒りや絶望は人々を結びつけていく。その過程をゲームの中でフェスやTRPGなどの形で体験するのは本当に楽しかった。

 それは私の日常であり、そしてまたこの連載そのものだ、という感じがした。

これまでも、これからも

 紹介したいものはまだいくらでもあるけど、時間は有限で、『フェミニスト、ゲームやってる』の連載はこれで終わる。

 もちろん、隕石が降ってくるのとは違い、連載が終わりwezzyという媒体が終わっても、フェミニストがゲームをやってる状態はこれからどんどん続いていく。

 連載も、今回の記事も含めて来年春頃に晶文社から単行本化される予定だ。書き下ろしのコラムや記事も大ボリュームなDLCくらいあるので、楽しみにしてほしいし、応援してくれると嬉しい。

 フェミニストがゲームをやっている姿がまた違う形で広まり、つながっていったらと思うと私自身ワクワクする。

 連載もこれで終了となるが、移籍先を探している(心当たりある方はお声掛けいただけるとうれしいです)。

 書籍化され、移籍先が見つかったとしてもwezzyでの連載が終わるのは確かだ。『フェミニスト、ゲームやってる』という連載自体、wezzyがなければできなかったと思う。

 連載やイベントはフェミニストやクィアのゲーマーにとって、隕石がいつも降っているようなゲームコミュニティへの不安と怒りが結集した企画でもあったと思う。隕石は人々の居場所を奪っていて、なにか集まる機会が必要だった。

 もちろん、フェミニズムとゲームを結びつけて語るような人は少なくないし、そうした記事はゲームメディアにも掲載されていた。それは本当に大事で記録しておきたい事実だ。

 ただそれでも私はこの連載が、孤独なものになると思っていた。なぜなら日本のゲームコミュニティの中で、ごく一部の空間以外でフェミニズムとゲームの話をするのは難しいように思えていたからだ。

 地平線の遠くにある船のように、一人一人そうした人々がいるのは知っていたけれど、それらが結びつくことがあるという風にはあまり思えなかった(もっともそれは私の個人的な人間との付き合い方の難しさに由来するものだったのかもしれない)。

 けど、『フェミニスト、ゲームをやってる』を書いていて発見したのは孤独ではなく、むしろ集うことだった。記事に寄せられる反応や、そもそも記事が続くこと、それ自体がいろいろなフェミニストがゲームをやっていることを教えてくれた。それは遠くにある船が小さな光を頼りに少しずつ集うような体験だった。

 取り上げた作品も、そうした中で教えてもらったものも少なくない。

 記事だけではなく、連載の途中ではwezzyのオンラインイベントとして『フェミニストたち、ゲームやってる』も開催された。ゲームやってるフェミニストやクィアで集うこのイベントは、それ自体がいろいろフェミニストかゲームをやっていることを示すようなイベントだったけど、イベント中のチャット欄の盛り上がりは本当に嬉しかった。

 まるでゲーム実況のチャット欄のように、リアルタイムでコメントが流れ続け、視聴者同士がまた新しいフェミニズムとゲームの話題を見出していく情景がそこにはあった。

 オンラインイベントにはいくつか出てきたけど、こんなイベントは他にはなかったと思う。それは私にとってフェミニズムのコミュニティーとゲームのコミュニティーの1番良いところが合わさった瞬間を見れたような体験だった。

 イベントの今後も定まってないけど、またなにかの形で出来たらと考えている(こちらもお力添えをいただけると嬉しいです)。

 フェミニストたちはこれまでも、これからもゲームをやっていくし、なにかをきっかけに集まったりするのだろう。

 これからもフェミニストたちのゲームライフが良いものでありますように。

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